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[分享]イリヤの空、UFOの夏 全4卷小说 达人解释结局进

楼层直达
级别: 风云使者
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2003-11-10
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0小时
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4807
完全转贴
希望达人能解释一下结局
偶看懂了70%,但实在不敢确定.
谢了




イリヤの空、UFOの夏 その1
秋山瑞人

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)誰《だれ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)第四|防空壕《シェルター》

〔#〕:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)〔#改ページ〕
-------------------------------------------------------

























     第三種接近遭遇
〔#改ページ〕





 めちゃくちゃ気持ちいいぞ、と誰《だれ》かが言っていた。
 だから、自分もやろうと決めた。
 山ごもりからの帰り道、学校のプールに忍び込んで泳いでやろうと浅羽《あさば》直之《なおゆき》は思った。

 中学二年の夏休み最後の日の、しかも牛後八時を五分ほど過ぎていた。近くのビデオ屋に自転車を止めて、ぱんぱんに膨《ふく》れたダッフルバッグを肩に掛けて、街灯もろくにない道を歩いて学校まで乗った。
 北側の通用門を乗り越える。
 部室長屋の裏手を足早に通り抜ける。
 敵地に潜入《せんにゅう》したスパイのような気分で焼却炉の陰からこっそりと周囲の様子をうかがう。田舎《いなか》の学校のグランドなんて広いだけが取り柄で、何部のヘタクソが引いたのかもよくわからないぐにゃぐにゃした白線はひと夏がかりで散々に踏《ふ》みにじられて、まだ闇《やみ》に慣れきっていない目にはまるでナスカの地上絵のように見える。右手には古ぼけた体育館、正面には古ぼけすぎて風格すら漂う園原《そのはら》市立園原中学校の木造校舎、そして左手には、この学校にある建造物の中では一番の新参者の園原地区第四|防空壕《シェルター》。あたりは暗く、当たり前のように誰の姿もなく、遠くの物音が意外なほどはっきりと耳に届く。いつまでも鳴り続けている電話のベル、何かを追いかけているパトカーのサイレン、どこかで原チャリのセルモーターが回り、誰かがジュースを買って自販機に礼を言われた。ふと、夜空にそびえ立つ丸に「仏」の赤い文字が目に入る。つい最近になって街外れにできた仏壇《ぶつだん》屋の広告塔だ。気分が壊《こわ》れるので、見なかったことにする。
 校舎の真ん中にある時計塔は、午後八時十四分を指している。
 そんじょそこらの午後八時十四分ではない。
 中学二年の夏休み最後の日の、午後八時十四分である。
 この期に及んでまだ宿題が丸っきり手つかずの浅羽《あさば》にとって、グランドを隔てて夏の夜に沈むあの時計塔つきの校舎はまさに、木造三階建ての時限|爆弾《ばくだん》に他《ほか》ならない。憎むべきはあの時計塔だった。あの時計塔の歯車の息の根を止めてしまえば、八時十四分で世界中の時間が止まるような気がする。そうなれば、夏休みは終わらないし二学期は始まらない。ここ一ケ月半、あの文字盤《もじばん》を見上げる者といえばせいぜい運動部のイガグリ頭どもくらいしかいなかったはずなのに、少しくらいサボったって誰にもわかりはしないのに、秒針だってないくせに、あの時計塔は一ケ月と半分という永遠にも等しい時間を一秒ずつ削り続けていたのだ。
 そして今、浅羽《あさば》に残された時間はあと十三時間にも満たない。
 あと十三時間でどかん。情け容赦なく二学期は始まる。理科教師にして二年四組担任の河口《かわぐち》泰蔵《たいぞう》三十五歳独身は、宿題を提出できない者たちを教壇《きょうだん》に並べて立たせ、科学的な目つきでにらみつけ、並んだ頭を出席簿《しゅっせきぼ》で科学的にばっこんばっこん叩《たた》きながら、なぜ宿題が提出されないのかについての科学的な申し開きを要求するだろう。
 ──だって先生、仕方なかったんです。ぼくは夏休みの初日にUFOにさらわれて、月の裏側にあるピラミッドに連れて行かれたんですから。そのピラミッドは奴《やつ》らの地球侵略のための秘密基地で、ぼくが押し込まれた牢屋《ろうや》にはぼく以外にも世界各国から同じように連れ去られた七人の少年少女がいました。ぼくらはその牢屋から脱走して、奴らの光線銃を奪って大暴れして、ついにピラミッドを破壊《はかい》してUFOで脱出して、昨日の夜にやっと地球に戻ってこれたんです。宿題をやってるヒマなんかなかったんです。だけど、ぼくらのおかげで人類は滅亡から救われたんだし、こうしてぼくと先生の今日という日もあるわけです。いえ違います、ですからこれは日焼けじゃなくて、UFOの反重力フィールドによる放射線|被曝《ひばく》です。ほらよく見てくださいよ、第五|福竜丸《ふくりゅうまる》みたいでしょ?
 八つ裂き間違いなしだ。
 とはいえ、「新聞部部長の水前寺《すいぜんじ》さんにつき合って、夏休みの間ずっと園原《そのはら》基地の裏山にこもってUFOを探していました」と正直に話したところで、結果がそう違ったものになるとは思えなかった。その現実は浅羽と一緒に焼却炉の陰に隠れている。あと十三時間足らずで、それはささやかな歴史的事実として確定する。
 浅羽|直之《なおゆき》の中学二年の夏休みは、園原基地の裏山に飲まれて消えたのだ。
 あと十三時間だ。
 死刑囚だって最後にタバコくらいは喫《す》わせてもらえるのだ。
 だから自分は、夜中に学校のプールに忍び込んで泳ぐくらいのことはしてもいいのだ。
 当然、やるべきなのだった。
 すぐ近くのどこかにピントのずれたセミがいて、闇《やみ》の中でじわりと一小節だけ鳴《な》いた。浅羽 は周囲に誰《だれ》の姿もないことを最終確認する。木造三階建ての校舎だけが、「お前の悪事は何もかもお見通しだ」とばかりにすべての窓を見開いて浅羽をにらんでいる。その校舎の真ん中左寄りに職員室があって、そのまた隣《となり》に「仮眠室」という名前の、狭くて畳敷きで用途不明な部屋があることも浅羽は知っている。宿直の先生がいるとすれば多分そこだと思う。が、校舎のどの窓からも明かりは漏れていなかったし、そもそも自分の学校が夜間に宿直の先生などというものを置いているのかどうか、浅羽はよく知らない。
 目的地であるプールは体育館の並びにあって、浅羽の隠れている焼却炉からは30メートルほどの距離がある。プールの周囲はフェンスではなく、合成|樹脂《じゅし》のパネルをつなぎ合わせた背の高い壁《かべ》で囲まれている。あれこそ悪名高きベルリンの壁、「これじゃ女子のプールの授業を見物できない」という男子生徒の怨嗟《えんさ》の声を一身に受けてなお揺るぎない難攻不落の壁だ。しかし今の浅羽《あさば》にとって、あの壁は味方だった。あの壁のおかげで、夜中にプールで泳いでいる自分の姿が外から見られることもないわけだから。進入ルートの目途もついている。更衣室の入り口のドアはすっかりガタがきているので、鍵《かぎ》が掛かっていようがお構いなしに力いっぱいノブを回せばロックが外れてしまうことを、浅羽はよく知っていた。
 あとは度胸だけ。
 誰《だれ》もいるはずがない。絶対バレない。
 だけど──という不安を拭《ぬぐ》い去れない。万が一にでも見つかったら大目玉だ。
 走った。
 ダッフルバッグをばたばたさせて、身を隠すもののない最後の30メートルを走り抜けた。更衣室の入り口をくの字型に目隠ししているブロック塀の陰に転がり込む。呼吸を整え、再び周囲を見まわしてやっと少しだけ安心する。更衣室入り口のドアノブを両手で思いっきり回す。磨耗《まもう》しきった金属がこすれ合う「がりっ」という感触を手に残して、ロックはひとたまりもなく外れた。
 そのとき、パトカーのサイレンが聞こえた。
 まさか自分に関係があるはずはないとわかってはいても、浅羽は思わず身体《からだ》をこわばらせて息を止めた。
 まただ、と思った。さっき焼却炉の陰に隠れていたときにも聞こえた。
 サイレンは溶けるように遠のいていき、唐突に途絶えて消えた。
 今夜はやけにパトカーが元気だ。何か事件でもあったのだろうか。そう言えば、夏休みの少し前に「北のスパイが付近に潜伏《せんぷく》している可能性があるから気をつけろ」という回覧《かいらん》板が回ったことがある。スパイには夏休みもクソもないのだろうか。
 深呼吸をした。
 更衣室のドアをそっと開け、中をのぞいてみる。
 真っ暗だった。
 暗すぎて、この中で着替えるのは無理だと思った。明かりを点《つ》けるのはいくらなんでもまずい。少し迷ってから、浅羽はこの場で着替えることにした。目隠しのブロック塀の陰だし、まさか誰か来たりもしないだろう。バッグを肩から下ろし、ジッパーを引き開け、そのときになってようやく浅羽は重大なミスに気がついた。
 山ごもりからの帰り道、だったのだ。
 つまり、このバッグの中には山ごもりの荷物が詰まっている。歯ブラシとかタオルとか着替えとか虫除けスプレーとかカメラとか小型の無線機とか。しかし、どう考えても山ごもりに海パンは必要ない。
 というわけで、自分は今、海パンを持っていない。
 ものすごくがっかりした。
 浅羽《あさば》はその場にしゃがみ込んだ。前の晩からの一大決心をしてアダルトビデオを借りにとんでもなく遠くのビデオ屋に出かけ、「これだ!」と思うパッケージに手をかけたそのときに財布を忘れてきたことに気づいた、あのときの落胆に似ていた。
 突飛な考えが頭をよぎる。
 こうなったら、素っ裸で泳ぐか。
 そのくらいの無茶はやってやろうか。
 夜中に学校のプールで素っ裸で泳ぐというのは何だかすごく気持ちのいいことであるような気が一瞬《いっしゅん》だけして、自分には露出《ろしゅつ》狂の気があるのかと不安になる。やはり素っ裸はまずい。何か海パンの代わりになるようなものはないかと、闇雲《やみくも》にバッグの中をあさった。
 くしゃくしゃに丸めた短パンが出てきた。
 シュラフの中で眠るときにはいていた、学校指定の体育の短パンだ。
 周囲に誰《だれ》もいないことをもう一皮確認して、浅羽はそそくさとズボンとトランクスを脱ぎ、短パンをはいてみた。Tシャツも脱いで己《おの》が姿を見下ろす。らしくないポケットがついているし、海パンと違ってインナーがないのでやけにすーすーする。
 でも、そんなにおかしくはないと思う。
 せっかくここまで来たんだし。
 腹は決まった。脱いだものをバッグに蹴り込んで浅羽は更衣室の中に入った。かろうじて見分けられるロッカーの輪郭を伝って、塩素の匂いのする湿っぽい暗闇の中を手探りで進んだ。シャワーも消毒|槽《そう》も素通りする。濡《ぬ》れた床の滑りやすさを足の裏で意識しながら、去年の夏に三宅《みやけ》がコケて血塗《ちまみ》れになったのって確かこのへんだったよな、と思う。せんせーおれしぬのーしぬのー、という泣き声までが生々しく蘇《よみがえ》り、浅羽はひとり心の中で詫《わ》びた。すまん三宅、あのときのお前はめちゃくちゃ面白かった。
 スイングドアを押し開けて、夜のプールサイドに出た。
 そこで、浅羽の思い出し笑いは消し飛んだ。瞬間《しゅんかん》的に足元がお留守になって、のたくっていたホースを踏《ふ》んづけて危うく転びそうになった。
 夜のプールサイドに、先客がいたのだ。

 女の子だった。

 まず、縦《たて》25メートル横15メートルの、当たり前の大きさのプールがそこにある。幻想的なまでに凪《な》いだ水面そのものよりも、何光年もの深さに映り込んでいる星の光に目の焦点を合わせる方がずっと簡単で、まるでプールの形に切り取られた夜空がそこにあるように見える。更衣室の暗闇《くらやみ》から出てきたばかりの浅羽《あさば》の目に、その光景は奇妙なくらいに明るい。奇妙なくらいに明るいその光景の中で、女の子は浅羽に背を向けて、プールの手前右側の角のところにしゃがみ込んで、傍らの手すりをしっかりとつかんでいる。スクール水着を着ている。水泳帽をかぶっている。真っ黒い金属のような水面をひたむきに見つめている。
 誰《だれ》だろう、とすら思わなかった。
 あまりにも意外な事態に出くわして、何も考えられなくなってしまった。
 まるで棒っきれのように、浅羽はただその場に突っ立っていた。
 誰にも見つからないように気をつけてはいたが、どうせ誰もいはしないと高をくくっていたところもある。更衣室のドアだって無理矢理開けたし、足音ひとつ立てずに歩いてきたというわけでもない。その女の子が最初からずっとそこにいたのなら、そうした物音が聞こえなかったはずはないと思う。なのに、少なくとも見る限りでは、女の子が浅羽の存在に気づいている様子はまったくない。浅羽に背を向けたまま、身動きもせずにひたすらプールの水面を見つめている。その背中には言い知れぬ真剣さが、これから飛び降り自殺でもするかのような緊張感《きんちょうかん》が漂っている。
 女の子が動いた。
 右手で手すりにしっかりとつかまりながら、左手を伸ばして水面に触れた。
 何かの実験でもしているかのような慎重さで、女の子は指先で小さく水をかき回す。木の葉一枚浮かんでいない水面に波紋が幾重にも生まれ、波紋はレーダー波のように水面を渡って、プールの縁《ふち》に行き着いて反射する。その様子を、女の子はじっと見つめている。
 誰だろう。
 やっとそう思った。
 うちの学校の生徒だろうか。スクール水着は学校指定のもののように見えたが名札がついていない。歳《とし》は自分と同じくらいだと思うが後ろ姿だけでは断言もできない。女の子の斜め後ろには大きなバッグが投げ出すように置かれている。その周囲には服が生々しく脱ぎ散らかされている。それはやはり、女の子のバッグであり、女の子の服なのだろう。
 思う。
 ということはつまり、女の子はこのプールサイドで水着に着替えたのだろうか。
 ものすごく思う、なぜ自分は人間として生まれてきてしまったのか。なぜ自分は、力いっぱい指差して叫びたい、足元にのたくるこのホースとして、そこの壁に立てかけられたデッキブラシとして生まれてこなかったのか。誰もいない夜の学校の誰もいない夜のプールで、ひとりの女の子が星の光に照らされながら着ているものをゆっくりと一枚また一枚
 そこから先を、浅羽は意志の力で捻《ね》じ切って捨てた。
 女の子の後ろ姿に漂うあまりの真剣さに、浅羽は急に居心地が悪くなってきた。ろくでもない妄想を抱いたことを恥ずかしく思う。女の子がなぜここにいて、何をしているのかはわからない。しかし、女の子がこちらに気づいていないというのはひどくアンフェアなことであると思った。自分に悪気はなくてもこれではのぞきと一緒だ。
 声をかけよう、と決めた。
 自分の存在を知らせよう。
 そう決めで、何と声をかけたらいいのか、言葉の組み立てもつかないままに、浅羽《あさば》は息を吸い込んだ。
 タイミングが悪かった。
 浅羽が吸い込んだ息を声にして吐き出そうとしたまさに瞬間《しゅんかん》、女の子がいきなり立ち上がろうとした。長いことしゃがみ込んでいたのか、女の子は立ち上がりかけで少しだけよろめき、「あの、」
 浅羽のそのひと言に飛び上がらんばかりに驚《おどろ》いて、女の子は全身で背後を振り返ろうとして、ただでさえ危うかった身体《からだ》のバランスがとうとう木《こ》っ端《ぱ》微塵《みじん》に崩れた。
 一瞬だけ、目が合った。
 驚きに見開かれた目の白さを宙に残して、女の子はお尻からプールに落ちた。
 派手な水音とともに、大粒の水しぶきがプールサイドのタイルに散った。
 浅羽も慌てた。事態の急展開に怖《お》じ気《け》づいた。このまま逃げちまおうかと思う。混乱した目つきで周囲を見回して、当たり前の事実に今さら気づく。プールは薄《うす》っペらで背の高い壁《かべ》に囲まれているのだ。マジックミラーでもあるまいし、外からこちらが見えないということは、こちらからも外が見えないということなのだ。宿直の先生か誰《だれ》かが今にも怒鳴り込んできそうな気がする。
 逃げよう。
 さんざん躊躇《ためら》った挙げ句にやっとそう決めて、更衣室の方に回れ右しようとした浅羽の足が止まった。
 水音がいつまでも止まない。
 女の子が水の中で暴れている。ときおり、腕や足が思いがけない角度で水面を割って突き出され、水面を叩《たた》いて沈む。
 ふざけているのかと思った。
 本当に溺《おぼ》れているらしいと気づいてからも、たった今まで逃げ腰になっていた身体はすぐには動いてくれなかった。あたふたとプールに駆け寄って、そのまま水の中に飛び降りる。足から飛び込んだせいで短パンの中に空気が溜《た》まって、水中でカボチャのように膨《ふく》れた。両手で水をかき分けながら歩き、女の子の手足が跳ね散らすしぶきに片目をつぶりながら手を伸ばし、大きな声で、
「ほらつかまって、ここなら」
 足がつくだろ?、そう言おうとした瞬間《しゅんかん》に女の子にしがみつかれた。プールの底で足が滑り、驚《おどろ》きの声を上げる間もなく浅羽《あさば》の頭は水中に没した。
 真っ暗で何も見えない。
 女の子にしがみつかれて自由な身動きが取れないし、もちろん息はできない。
 パニックに陥った。
 あっという間にわけがわからなくなった。手を伸ばせば届くはずのプールの縁《ふち》がどこにあるのか、どっちに水面があってどっちに底があるのか、自分の身体《からだ》は上を向いているのか下を向いているのか。太平洋の真ん中でもがいているのと同じだった。女の子を一度振りほどこうとするのだが、浅羽が身をもがくと女の子の方はますます必死になってしがみついてくる。信じられないくらいの力だった。このままでは自分も溺《おぼ》れると浅羽は本気で思った。ここは足がつくのだ、ここはプールの緑のすぐそばなのだ、懸命《けんめい》に自分にそう言い聞かせ、両足と片腕で夢中になって水の中を探った。
 プールの緑に指先が触れた。
 プールの底に爪先が触れた。
 どうにか体勢を立て直してた。やっとのことで二人の頭が水の上に出る。気道に入ってしまった水に咳《せ》き込みながらも、助かった、と身体中で思う。さっきまでは底無し沼だったはずのプールは、ちゃんと足をついて立ってみればやっぱり浅羽の胸元くらいまでの深さしかない。はは、と小さく笑う。
 そして浅羽は顔を上げ、
 目が合った、どころではなかった。
 タバコ一本分もない、生まれて初めての至近距離に女の子の顔があった。
 二人ともいまだに呼吸が荒く、二人ともいまだに抱き合ったままだった。二人が散々にかき回した水の動きに、二人の身体が小さく揺られていた。
 浅羽よりも少し背が小さい。水泳帽の縁からはみ出た髪の先から雫《しずく》が滴っている。自分以外の人間なんか生まれて初めて見たとでも言いたげな表情で、浅羽をまっすぐに見つめている。誰《だれ》もいないはずの夜の学校の、誰もいないはずの夜のプールで、見知らぬ女の子と、星の光に照らされながら、
 現実の出来事とは思えない。
 少しだけ首をかしげ、女の子が何か言おうとした。
 まだ言葉を憶《おぼ》えていない幼児がもの問いたげに発する声のようにも、外国語の感嘆詞のようにも聞こえた。
 そして、
「っ」
 いきなり、浅羽と密着していた女の子の身体にぎゅっと力がこもった。浅羽から半歩だけ身を離し、顔をそむけて両手で鼻と口を覆《おお》う。
 それがきっかけになって、目の前の女の子の顔に見とれていた浅羽《あさば》は一挙に現実に引き戻された。自分はそんなにへんな匂いがするのだろうかと思って狼狽《ろうばい》し、密《ひそ》かに手のひらに息を きかけて口臭の有無を確かめ、
 けふ、と女の子がむせた。
 驚《おどろ》きのあまり死ぬかと思う。女の子が血を吐いている。口元を押さえている手の指の間から、血が滴《したた》り落ちている。
「!!、あ、わ、うわ!、あの、」
 みっともないくらいに慌てふためく浅羽を上目づかいに見つめ、女の子は、やっと聞き取れるくらいの声で、
「はなぢ」
 そう言って、片手で水をすくい、鼻から口元へと伝い落ちていく血を拭《ぬぐ》う。血を吐いているのかと思ったのは浅羽の勘違いで、よく見れば本当に鼻血だった。
 しかし、浅羽にとってはどっちでも同じようなものである。
 とにかく、自分が何とかしなくてはならない。
 そのことに変わりはなかった。
 浅羽はロケットのような勢いでプールから上がり、プールサイドに置かれている女の子のバッグに駆け寄った。脱ぎ散らかされている服の方はできるだけ見ないようにして、幅が親指ほどもあるごついジッパーに手をかけた。頭の中の慌てふためいている部分は「タオルぐらいは入っているだろう」と考えており、わずかに残っていた冷静な部分が「女の子っぽくないバッグだな」と考えていた。色は暗い緑で、固い手ざわりの頑丈な素材でできていて、でっかいポケットがいっぱいついている。園原《そのはら》基地の兵隊が持ち歩いているバッグに似ていた。ジッパーを一気に引き開け、一番上に入っていたバスタオルを引っぱり出して、そのすぐ下に入っていた物を目にして思わず息を呑《の》んだ。
 錠剤が一杯に詰まった、ジュースの缶ほどの大きさの、プラスチック製の瓶《びん》が三本。
 見てはいけない物を見てしまった。
 そう思った。
 浅羽はあたふたとジッパーを閉めてしまった。なにしろ慌てていたし、大量の薬が詰まった瓶のインパクトに目を奪われていたし、それ以上はろくに見もしなかった。だから、薬の瓶のすぐ隣《となり》に、口径が9ミリで装弾数は十六発の「もっと見てはいけない物」のグリップが突き出ていたことに、浅羽はついに気づかなかった。
 バスタオルを手に、できるだけさりげない表情を顔に、浅羽は大急ぎでプールに駆け戻った。女の子はようやくプールから上がろうとしているところで、それはまるで鉄棒に足をかけてよじ登ろうとしているようなスキだらけの格好で、浅羽はじろじろ見てはいけないという一心から不自然なくらいにそっぽを向き、
「これ」
 バスタオルを差し出した。
 しばらくしてから浅羽《あさば》が視線を戻すと、女の子の上目づかいの視線にぶつかった。両足を水に入れたままプールの縁《ふち》に座って、肩にかけたバスタオルの両端で鼻を押さえている。鼻血はもう収まりかけているようだったが、バスタオルを染める赤にどきりとする。
 どうしよう、と思う。
 現実から足を一歩だけ踏み外しているような感覚がいまだに続いている。正直なところ、なんだか気味が悪い、とも少しだけ思う。「じゃあぼくは帰るから」と告げて、とっととこの場から立ち去りたいという気持ちは、心の中で決して小さくはない。
 だけど──
 女の子がじっと浅羽を見つめている。浅羽は再びそっぽを向く。
 このままここに残していったら、この子はいつまでもこうしてプールの縁に座っているのではないか、という気がする。
「見た?」
 いきなり、女の子がそう尋ねた。
 浅羽は不意を衝《つ》かれて言葉に詰まった。血を見て慌てていたとはいえ、断りもなくバッグを開けてしまったのはまずかった、と浅羽は思う。それに、こうもはっきりと聞かれてまだとぼけるのも、なんだかズルいような、男らしくないような。
 近からず遠からずの距離を目で測って、浅羽は女の子と同じようにプールの縁に座った。
「──病気なの?」
 女の子はほんの一瞬《いっしゅん》だけ、ほんのわずかに怪訝《けげん》そうな顔をして、すぐに首を振った。その後に何か説明があるのだろうと思って浅羽は続く言葉を待ったが、女の子はそれっきり黙《だま》っている。浅羽は沈黙《ちんもく》に耐えきれなくなり、何か言わなければと思って、
「名前は?」
 女の子が答える。
「いりや」
 何を言っても外国語のように響《ひび》く、少し不器用な感じの、不思議な声だった。
「──それ、名前? 名字《みょうじ》?」
 ひと呼吸おいて、女の子はこう答えた。
「いりや、かな」
「伊里野《いりや》」かもしれない、と思った。そういう地名が園原《そのはら》市の中にあるから。
 女の子は浅羽の次の言葉をじっと待っている。
 何か言わなければ、と浅羽は思う。
「──泳げないの?」
 言ってしまってから、もうちょっと実のあることを聞けないのかバカめ、と自分でも思う。泳げないに決まっている、さっき溺《おぼ》れているところを助けたばかりではないか。
 目を合わせないようにしている浅羽《あさば》の視界の中で、女の子がこくっとうなずいた。
 何か言わなければ、と浅羽は思う。
 思うのだが、切れ端のような言葉でしか喋《しゃべ》らない女の子に引きずられているのか、頭の中で渦巻く疑問をちゃんと意味の通る「質問」にすることができない。疑問を生のままで口にすれば「君は誰《だれ》?」というひと言だけになってしまう。この女の子がそれに明快な答えを返してくれるとは思えない。沈黙《ちんもく》は続き、緊張《きんちょう》はいや増し、何か言わなければと焦れば焦るほど、「じゃあぼくは帰るから」以外には何の言兼も思い浮かばない。
「およげる?」
 いきなり、女の子がそう尋ねた。
 あなたは泳げるのか、と質問しているのだ。そのことを理解するまでに少しかかった。
 そして、そのひと貢が突破口になった。
「──あのさ、もしよかったら、」
 この子は泳げない。そして、得意中の得意というわけでもないけれど、自分は泳げる。
 その点において自分は、多少なりともいいところを見せられる。
「教えてあげるよ、泳ぎかた」
 浅羽はそう言った。
 言ってしまってから、自分の提案に自分でためらいを覚える。この女の子はさっき鼻血を出した。バッグには得体の知れない薬がどっさり入っていた。本人がどう思っているのかはわからないが、そもそもこの子がプールで泳ぐなどという事自体が無理な話なのではないか。
 ところが、女の子はこくっとうなずいて、ほんの少しだけ嬉《うれ》しそうな顔をした。
 その顔を見ただけで、浅羽はあっけなく勢いづいた。
「ちょっと待ってて」
 ビート板を取ってこようと思って、小走りに用具置き場へとむかう。気配を感じてふと振り返ると、待っていろと言ったのに、女の子は小犬のように浅羽の後をついてきていた。ビート板の山をひっくり返して、できるだけきれいでぬるぬるしていないやつを探している間もずっと、女の子の視線に背中がむずむずしていた。
 思う。
 ひょっとすると、この子は泳げないというよりも、生まれてから今日まで一度も泳いだことがなかったのかもしれない。
 それでも、どうしても泳いでみたくて、一大決心をしてやって来たのかもしれない。
 きっとそうだ、と浅羽は根拠もなく思う。
 病気なのかと浅羽は尋ね、女の子は首を振った。しかし、いわゆる病気ではないにせよ、あれだけの薬を持ち歩いているのはやはり普通ではないのだろう。
 例えば、生まれつき身体《からだ》が弱い、とか。
 長いこと患っていた大きな病気が最近やっと治ったばかり、とか。
 きっとそうだ、と浅羽《あさば》は思った。この子はずっと昔から病院を出たり入ったりの生活をしていて、学校も休みがちで、それこそ体育の授業なんかはずっと見学で、プールの授業では泳いでいる友達の姿をただ見ているだけで、それでも泳ぐということにすごく憧《あこが》れていて、最近になってやっと身体の具合がよくなってきたのでお母さんに「プールに行ってもいい?」と尋ねてみても「なにバカなこと言ってるのこの子はだめに決まってるでしょあらこんな時間もう薬は飲んだの?」かなんか言われて、それでもあきらめきれなくて、こっそり家を抜け出して夜のプールにやって来たのだ絶対そうだ、と浅羽は思った。
 そう考えれば、何となく線が細い感じがすることも、プールを見つめていたときの思いつめたような雰囲気も、くそ真面目《まじめ》に水泳帽をかぶっていることも、いきなりの鼻血も大量の薬も、ぜんぶ説明がつくような気がした。
 ビート板を二枚手に取ってプールに戻り、ざぶんと足から飛び込んだ。女の子はプールの縁《ふち》で少しためらって、浅羽と同じように足から飛び込む。まるで、浅羽のやることを何から何までそっくりそのまま真似《まね》しようとしているかのように見える。
 ビート板を女の子に手渡して、
「これにつかまってれば溺《おぼ》れたりしないから」
 そこでふと気になって、
「──あのさ、水に顔つけられる?」
 女の子は、恐々と首を振る。

 というわけで、まずはそこから始めなければならなかった。
 一番時間がかかったのもそこだった。励ましてもなだめても、女の子はなかなか顔を水につけることができなかった。ところが、ずいぶんかかってようやく頭全部を水の中に入れることができるようになると、そこから先は早かった。プールの縁につかまって身体を伸ばす練習をして、バタ足の練習をして息継ぎの練習をして、いよいよビート板を使った練習に移った。
 そして、中学二年の夏休み最後の日の午後九時を、十分ほど過ぎた。
 そして、そのころにはもう女の子は、ビート板につかまってなら15メートルを泳げるようになっていた。バタ足の膝《ひざ》が曲がっているので盛大な水しぶきが上がる割にはずいぶんなノロノロ運転だし、放っておくとどんどん右に曲がっていく。とはいえ、まったくのカナヅチからのスタートだったことを思えば長足の進歩だ。もともと運動神経がいいのかもしれない。
 教える方の浅羽も最初はおっかなびっくりで、女の子がまた鼻血を出したらそこですぐにやめにしようと思っていた。が、女の子の上達の早さにどんどん欲が出てきた。女の子は相変わらず寡黙《かもく》で、浅羽《あさば》の言葉にもうなずいたり首を振ったりするだけだったが、何かひとつのことができるようになるたびに表情が少しずつ明るくなった。
「すごいよ。この調子でいけば来週には水泳部のエースだ」
 女の子は、少しだけ嬉《うれ》しそうな顔をした。ここ一時間ほどの間に、浅羽はこの「少しだけ」の微妙な差をどうにか読み取れるようになっていた。今のこの顔は、これまでで一番嬉しそうな顔だ。
「じゃあ、そろそろビート板を卒業だ」
 途端に女の子の表情が固くなる。
「大丈夫だって、もうひとりで泳げるって。もうビート板なんかあってもなくても一緒だよ」
 女の子はこくっとうなずく。が、それは言われたことに納得しているわけではなくて、浅羽を失望させたくない一心からのものであるようにも見える。
「あ、あのさ、」
 浅羽はあっという間に妥協して、
「それじゃまずは、ぼくが手をつかまえてるからさ。それなら平気でしょ?」
 浅羽はそう言って両手を差し出した。
 今度は女の子も納得したのか、少しだけ安心したような表情を見せた。自分から両手を伸ばして浅羽の手首をつかむ。浅羽の手は、女の子の手首をつかむ形になった。

 そして、浅羽はやっと「それ」に気づいた。

 その瞬間《しゅんかん》に女の子も、浅羽が気づいたことに気づいてぎくりと身を固くした。たった今まで、自分の手首に「それ」があることを、女の子は自分でも忘れていたのかもしれない。
 浅羽は指先で、女の子の手首を探る。
 何か、硬くて丸いものがある。
 ゆっくりと、手首を裏返してみた。
 卵の黄身ほどの大きさの、銀色の金属の球体が、女の子の手首に埋め込まれていた。
 女の子がじっと見つめてくる。
 水の動きに身体《からだ》が揺られている。
 現実が水に揺られて、再び遠のいていく。
「痛くないから」
 そう言って、手首の金属球が浅羽によく見えるように両手を差し伸べて、女の子が近づいてくる。
 生の疑問。何をおいてもまず最初に聞いておくべきだったこと。
 君は、誰《だれ》。
「なんでもないから」
 優位は逆転していた。今、怖《おそ》れるなと言い聞かせているのは女の子の方だった。浅羽《あさば》は後ずさりしようとするが、ひたむきなその目にじっと見すえられ、外国語のような響《ひび》きをもつその口調に呪縛《じゅばく》されている。後ずさりの最初の一歩がどうしても踏み出せない。
「なめてみる?」
 女の子はもう、目の前にいた。
 女の子と浅羽の顔の間には、もう、銀色の球体が埋まった手首があるだけだった。
「電気の味がするよ」
 誰《だれ》もいないはずの夜の学校が、誰もいないはずの夜のプールが、星の光が、見知らぬ女の子が、何もかもが、現実の出来事とは思えない。

 いきなり、パトカーのサイレンが聞こえた。

 驚《おどろ》きのあまり、浅羽の口から情けない悲鳴がもれた。
 本当にすぐ近くから聞こえた。学校の中か、あるいは外だとしてもグランドの周囲をめぐっている通りのどこか。体育館の窓に点滅するパトライトの照り返しが見える。一台や二台ではない。
 女の子は無言だった。
 表情の動きもあるにはあったが、浅羽の目には、自分の十分の一も驚いているようには見えなかった。そのことが浅羽のパニックをさらにあおる。とにかく自分が何とかしなくてはならないのだ。何が何だかわからないままに、浅羽は女の子の手を引いて無我夢中でプールから上がろうとした。
 そして、浅羽がプールの縁《ふち》に行き着くよりも早く、その男は現れた。
 更衣室のスイングドアから、ゆっくりとプールサイドを歩いてくる。
 背の高い、年齢《ねんれい》のよくわからない男だった。
 スーツの上着を肩に引っかけて、もう片方の手にはバスタオルを持っていた。ネクタイはしていない。顔つきは若くて、タレ目で、いつも下品な冗談を言ってはひとりで大笑いしていそうな感じがする。しかし、何かにひどく疲れたような、すり切れたような雰囲気がどこかに漂っていた。
「帰る時間だ」
 立ち止まり、プールサイドから女の子をまっすぐに見つめて、男はそう言った。
 現実は、女の子の鼻血と一緒に、プールの排水口に流れ込んで消えてしまったのだと思う。
 何が何だかわからないし、混乱していたし、怖くないといえば嘘《うそ》もいいところだ。しかし、浅羽は虚勢を張った。一歩前に出て、女の子を背後に庇《かば》う位置に立った。
 男はそれを見て、思いがけないものを見て感心したかのような、おっ、という顔をする。
 女の子が背後からささやく、
「だいじょうぶ、知ってるひと」
 浅羽《あさば》はそれでも男から目を離さず、肩ごしに、
「誰《だれ》?」
 男がそれに答えた。
「──そうだな。まあ、その子の兄貴みたいなもんだ。君は?」
 浅羽はつばを飲み込み、わざと不機嫌そうな声を作った。
「この学校の生徒」
 です、と言ってしまいそうになるのを堪《こら》える。男は周囲をぐるりと見回して、
「なんでまた。こんな時間に」
「泳ぎたくて」
 浅羽のそのひと一言に、男はいきなり顔中で笑った。
「──っかそっか。なるほどな。今日で夏休み終わりだもんな」
 男はプールの縁《ふち》にしゃがむ。ニタニタ笑いながら浅羽を見つめて、
「おれも昔よくやったよ。おれのいた学校にゃ住み込みの用務員がいてさ、これがまたとんでもねーカミナリおやじでな。泳ぎに行くっていうよりダチ同士の度胸くらべさ。大|騒《さわ》ぎしながら泳いでるし、二回に一回はおやじが箒《ほうき》持ってすっ飛んでくるんだが、こっちだって端《はな》からそのつもりだからそうそう捕まりやしない。で、うまく逃げおおせたらおやじんところにイタズラ電話入れてさ、『あー、長沢《ながさわ》くん』これ校長の物真似《ものまね》な、長沢ってのはおやじの名前な、『あー長沢くん。あれかね、チミは、プールに忍び込んだ生徒を捕まえることもできんのかね。そんなことじゃクビだよチミ』。おやじもーカンカンに怒ってなあ。あれは面白かった」
 プールの外に複数の人と車の気配。静かなエンジン音、タイヤが砂利を噛《か》む音、ドアを叩《たた》きつけるように閉める音。
 囲まれている。
 なのに、この男以外には誰もプールの中には入ってこない。
 この男もまったく得体が知れない。話のわかる兄貴分という雰囲気が、うわべだけの作り物のようには見えない。浅羽には、そのことが逆に薄《うす》気味悪く思えた。
「あの、」
 生の疑問再びだった。
 あんたたちは何者なのか。
 そして、女の子と同じように、この男もまた、そんな疑問に明快に答えてくれるとは思えなかった。浅羽の言葉は出だしでいきなり失速し、男がそこに先回りをする。
「今でもありがたいと思ってるよ。長沢のおやじはさ、おれらガキどもの遊びにちゃんとつきあってくれてたんだよな。毎度毎度悪さをするメンツなんて知れてるしさ、捕まらなくたっておれらの名前なんか割れてたはずなんだ。けど、おやじはおれらのこと先生にちくったりしなかった。──だからまあ、おれは今でも、君みたいなイタズラ坊主にはわりと寛大なわけさ」
 そう言って、浅羽《あさば》をじっと見つめる。
 お前がここにいたことは黙《だま》っていてやるから、お前の方も何も聞くな。
 そう言っているのだ。
 浅羽はそう理解した。
 男を見つめて、浅羽は小さくうなずいた。
 男はにかっと笑った。上着のポケットから無線機のような物を取り出して、
「いま終わった。Cが1、これから出ていく」
 早口にそれだけ言って、背伸びをしながら立ち上がった。
「さ、もう上がれ。ビート板ちゃんと片づけろよ。あと目も洗え。ところでお前、」
 女の子にむかって、
「泳ぐのなんて今日が初めてだろ?」
 浅羽の手を借りてプールから上がった女の子は、ひと言だけ、
「教わった」
 男は、へえ、という顔をした。女の子の頭にバスタオルを投げかけ、
「そいつは世話になったな。お前もほら、」
 そう言って、バスタオルごしに女の子の頭を乱暴にぐいと押してお辞儀をさせた。
「君がまず先に出てくれ。外にいる連中は、何も危害は加えない」
 頭の中は混乱していた。
 言いたいことは、聞きたいことは、山のようにあった。
 おぼつかない足取りでプールサイドを歩き、更衣室のスイングドアを押し開け、そこで浅羽は背後を振り返った。男が小さく手を振った。女の子はその隣《となり》で、バランスの悪い人形のように立ち尽くしている。頭にかぶったバスタオルの陰から浅羽をじっと見つめている。
 すべてが、現実の出来事とは思えなかった。
 ビート板を片づけるのも目を洗うのも忘れていたが、男は何も言わなかった。

        ◎

 浅羽|直之《なおゆき》のUFOの夏が始まったのは、今を溯《さかのぼ》ること二ヶ月前の、六月二十四日の放課後のことである。

 園原《そのはら》中学校の三年二組に水前寺《すいぜんじ》邦博《くにひろ》という実にハイスペックな男がいる。出席番号は十二番で、十五歳にして175センチの長身で、全国模試の偏差値は81で、100メートルを十一秒で走り、顔だってまずくはない。
 が。
 この人はエネルギーの使い方を生まれつき間違えてるんだよな、と浅羽《あさば》はいつも思う。
 なにしろ、進路調査表の第一志望に本気で「CIA」と書く男である。
 三年二組で十二番で175センチで81で十一秒に加え、水前寺《すいぜんじ》邦博《くにひろ》は自称・園原《そのはら》中学校新聞部の部長兼編集長でもある。なぜ「自称」なのかというと、新聞部は学校側に公式に部として認められていないからだ。メンバーはずっと三年生の水前寺と二年生の浅羽の二人だけだったが、この春に浅羽と同じクラスになった須藤《すどう》晶穂《あきほ》が何を思ったか「あたしも入ろっかな」と乱入してきた。
 これで部員は三人となった。
 校則によれば、部長が三人いれば部として申請《しんせい》できることになっているし、晴れて公式な部となれば部室や部費がもらえる。だから晶穂はいつも申請しろしろとせっついているのだが、肝心の水前寺にその気がまるでない。その理由がまたすごい。
『ジャーナリズムの自主自立を守るために、体制からは慎重な距離を保つべきである』
 ばっかみたい、と晶穂は言う。
 とはいえ、仮に水前寺が申請をしたとしても、学校に部として認められることはないだろうと浅羽は思う。
 紙面の内容が内容だからだ。
 園原中学校には、水前寺邦博が100メートルを十一秒で走ることを知らない者はいても、水前寺邦博が超常現象マニアであることを知らない者はいないのだ。さらに言えば、水前寺にとっては天下のCIAですら、超常現象の真実を解明するための手段のひとつにすぎない。水前寺がなぜCIAを志望しているかといえば、本人|曰《いわ》く「CIAに入って超スゴ腕の工作員になって秘密作戦に参加したり極秘文書を閲覧《えつらん》できる立場になれば、おれの知りたいことがぜんぶわかるかもしれない」ということらしい。
 ではその「おれの知りたいこと」というのは一体何かというと、これが概《おおむ》ね季節によって変わる。
 例えば、この冬の水前寺テーマは「超能力は果たして実在するか」だった。この頃《ころ》、水前寺(と浅羽)は昼休みに放送室を占拠し、全校生徒を対象にテレパシー実験をやらかして先生にめちゃくちゃ怒られた。
 そして春が来て、水前寺テーマは「幽霊《ゆうれい》は果たして実在するか」に変わった。この頃、水前寺(と浅羽)は幽霊が出ると噂《うわさ》の帝都《ていと》線|市川大門《いちかわだいもん》駅女子トイレを夜中に潜入《せんにゅう》取材して110番され、先生にめちゃくちゃ怒られた。
 そういう男が編集長の、つまりはそういう新聞なのである。
 名前だって、少し前までは「太陽系電波新聞」だった。
 しかし、晶穂《あきほ》が入ってから状況は少しだけ変わった。今でも水前寺《すいぜんじ》テーマ関連の記事が紙面の七割近くを守ってはいるが、晶穂の担当する「真面目《まじめ》な記事」もじわじわとその版図を拡大しつつある。最近になって晶穂は編集会議で「紙名を変更すべきだ」という主張をぶち上げた。五時間にも及ぶ舌戦の末に浅羽《あさば》の調停工作がやっと実を結び、双方|崖《がけ》っぷちギリギリの妥協点として「園原《そのはら》電波新聞」という線で一応話は落ち着いた。新紙名をどう思うかと浅羽が尋ねたところ、

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イリヤの空、UFOの夏 その2
秋山瑞人

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《》:ルビ
(例)夕子《ゆうこ》

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〔#〕:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)〔#改ページ〕
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     正しい原チャリの盗み方・後編
〔#改ページ〕





 あっちは慎ましやかなものだった。それにひきかえこっちはすごい。激辛エビコロッケバーガーと青リンゴのアップルパイとマンゴーバナナシェイクとフライドポテトのダブル、それに『この夏だけのスパイシーチキン』が12ピース。
 絶対に食べきれない。
 しかし夕子《ゆうこ》は容赦しなかった。どうせ金を出すのは水前寺《すいぜんじ》である。が、水前寺は文句のひとつも言わずに財布を出し、カウンターに並んでいる誰《だれ》もが振り返るくらいの声で、
「食欲旺盛だな浅羽《あさば》くん! 兄貴に爪《つめ》の垢《あか》でも煎《せん》じて飲ませてやったらどうかねっ!」
 レジのお姉さんにまで笑われた。思いきりにらみつけてやったけれど、水前寺は痛くも痒《かゆ》くもないという顔で、象にでも食わせるのかと思うくらいの無茶苦茶なオーダーを追加した。わしづかみにしたナプキンとみっともないほど山盛りのトレイを手に、水前寺のどでかいバスケットシューズの踵《かかと》を蹴《け》飛ばすようにして狭い階段を上る。一階は窓際のカウンター席だけ、階段を上がれば二階は禁煙席で三階が喫煙席。
 兄と伊里野《いりや》加奈《かな》が三階の喫煙席のすみっこにいることは、すでに確かめてあった。
 涙ぐましい配慮だと夕子は思う。半端な時間だから客の入りだって多くはない。わざわざ三階まで上がらなくたって空いている席なんかそのへんにいくらでもある。が、だからこそ兄は三階の喫煙席を選んだはずだ。三階まで行けば一番空いているはずだから、くそやかましい子供連れが隣《となり》に座ったり同級生に出くわしたりする可能性を少しでも低くしたいから。
 先を行く水前寺が狭い階段の途中で立ち止まり、二階から降りてきた二人連れの客に道を開けた。夕子も壁《かべ》にぴったりと背中をくっつけ、水前寺の身体《からだ》の陰に山盛りのトレイを隠すようにして二人を通す。水前寺のバッグから垂れ下がっているヘッドホンの片っぽがちょうど目の前にある。耳に突っ込んでみる。三階の喫煙席のすみっこから放たれている盗聴器《とうちょうき》の電波は、この場所からでも鮮明《せんめい》に受信できた。
 兄が喋《しゃべ》っていた。

 ──でもごめんね、なんだか変なことになっちゃって。映画途中で終わっちゃうし消防車来ちゃうし。ったく、サービス券なんかくれたってしょうがないよな。
 沈黙《ちんもく》。
 ──あ、あのさ。このへんの町ってああいうのにすごくうるさいんだ。映画館とかデパートとか駅とか、人が大勢集まる場所は特にそうだけど、ちょっと変な臭《にお》いがしたりとか怪しい鞄《かばん》が置きっぱなしになってるとか、そんなことですぐパトカーや消防車来ちゃったりするしさ。
 沈黙《ちんもく》。
 ──そう言えば、映画終わっちゃうちょっと前に客席の後ろの方の席で走り回ってる人たちいたよね。何だったんだろあれ。
 沈黙。盗聴器《とうちょうき》の集音|範囲《はんい》をかなり外れた位置から無闇《むやみ》に明るい女の声が近づいてくる。お待たせしましたあー、番号札四番で地域限定UFOピザをお待ちのお客さまあー。

 水前寺《すいぜんじ》は二階席の一番奥にある四人がけのテーブルにトレイを置いた。バッグの中に手を突っ込んで盗聴用レシーバーのチューニングを調節する。そして席に着くなり、夕子《ゆうこ》の言う「泣き虫女」の正体についての明快な答えを出した。
 伊里野《いりや》特派員は泣いていたわけではあるまい、と言うのだ。
「じゃ何してたって言うの。だって見たもん、お兄ちゃん珍しくハンカチなんか持ってて、」
「伊里野特派員がまた鼻血を出したのだろう」
「鼻血?」
 ひとつめのハンバーガーにかぶりつきながら水前寺はもごもご説明する。
 聞けば、伊里野|加奈《かな》は入部したてのピカピカの新人であるらしい。初めて部室に顔を見せたのが木曜日の放課後。今日は日曜日だから、伊里野の新聞部員歴はまだ三日そこそこということになる。そして水前寺は、その三日そこそこの間に、伊里野が大した理由もなくいきなり鼻血を出すところを何度も見たという。
「──病気?」
 水前寺は早くもふたつめのハンバーガーに手をかけた。
「かもしれん。──ただ、見ているうちにわかってきたのだが、どうやら感情が激しく高ぶったときなどに鼻血を出すことが多いようだ」
 なんだそれ。
 まるでマンガみたいな奴《やつ》だと夕子は思った。水前寺はふたつめのハンバーガーの残り半分を一気に口に押し込み、ろくに噛《か》みもせずに飲み込んで、
「では次だ。伊里野特派員の入部届の件」
 夕子はストローをくわえたまま面倒臭そうに説明する。兄の辞書の中に挟んであるのを見つけたこと、そこに書かれていた伊里野の名前、入部希望先、そして入部希望理由。
「なるほどな」
 水前寺は喉《のど》の奥で笑いながらみっつめのハンバーガーに手を伸ばした。まったく見ているだけで腹がいっぱいになってくる。こいつこれから冬眠でもするのか、と夕子は思う。こんなによく食う奴は生まれて初めて見た。
「浅羽特派員がおれに見せなかったのも当然だ。──しかし浅羽くん、辞書に挟んであったということはつまり、はっきりと隠してあったわけだな、その入部届。バレないようにきちんと元通りにしておいただろうな?」
 夕子《ゆうこ》はうなずき、
「あ、それとね、椎名《しいな》っていうハンコが押してあった」
「ハンコ?」
「ほら、入部届の用紙って担任と顧問《こもん》がハンコを押す四角があるでしょ。顧問の方の四角は空っぽだったけど担任の方に椎名って」
 みっつめのハンバーガーにかぶりつこうとしていた水前寺の口が止まり、
「──椎名って、椎名|真由美《まゆみ》か? 保健室の?」
「じゃない? 他《ほか》にそんな名前の先生いないもんうちの学校」
 水前寺《すいぜんじ》の目つきが遠くなった。一心に何かを考えているらしい。
 が、夕子には「椎名」の印にそれほどの興味《きょうみ》は覚えていなかった。伊里野《いりや》加奈《かな》はきっと先生なら誰《だれ》でもいいやと思って、一番話の通じそうな相手に捺印《なついん》を頼んだに違いない──その程度に考えている。そんなことよりも、ゲリラ集団である新聞部への参加になぜ入部届など書いたのか、そっちの方が気になる。ひねった趣向《しゅこう》のラブレターとしてあえて書いた、と見ることもできなくはないが、いくらなんでも奇をてらいすぎていると思う。
「ねえ」
「──ん?」
「新聞部ってまだ部じゃないんでしょ、なのになんで入部届なの?」
「ああ。それは、伊里野特派員が知らなかっただけだろう」
「何を?」
「だから、新聞部がゲリラ部だということを」
 そんなはずがあるか、と夕子は思った。
 そして、唐突に腹が立ってきた。
 夕子はフィールドホッケー部員である。競技自体がマイナーなので部員も少ないから初心者でも選手になれる可能性が高いし、予選なしでいきなり県大会に出られる。ギーにそう説得されたのだ。が、マイノリティが抑圧を受けるのは世の常であり、グランドの割り当て面積ときたらアパルトヘイトも真っ青である。建前とは裏腹に、学校の部活動の待遇というのは決して公平ではないのだった。「うちの学校にそんな部あったっけ?」と誰かに言われるたびに夕子はくやしい思いをしてきたのである。それにひきかえ、新聞部の有名っぷりと言ったらただ事ではない。部員数わずか三名、伊里野を入れてもやっと四名、部室長屋の空き部屋を不法占拠して活動するゲリラ集団。そのくせ、園原《そのはら》中学校にはフィールドホッケー部のことを知らない奴《やつ》はいても、新聞部のことを知らないような寸足らずはひとりもいない。その新聞部の長が目の前にいると思えば、夕子の虐げられた民族としての怒りは募った。そんなにゲリラがしたければテルアビブへでも行って地雷畑を耕しているがいいのだ。
 小さな平手がテーブルを叩《たた》く、
「そんなの知らないはずないでしょ! ニュースで見たもん子供が地雷を掘り出して川に投げ込んで魚を捕るって! あんたそのへんどう思ってるわけ!?」
「な、何を言っとるのかね君は」
 さらに噛《か》みつく、
「うちの学校の生徒が新聞部のこと知らないはずないでしょ!? だいたいゲリラ部のくせにいっつも大きな顔してずーずーしいのよ!」
 水前寺《すいぜんじ》は眉《まゆ》をひそめる。話が見えない。ひょっとしたら自分の方が何かとんでもない勘違いをしているのかもしれないという気がして、水前寺は念のために自分のコマをふりだしまで戻す。
「──ちょっと待ちたまえ浅羽《あさば》くん。いいかね、我が新聞部が正しくは部でないことを、伊里野《いりや》特派員が知らなかったとしても無理もなかろう」
「なんでよっ!?」
「転校してきたばかりだから」
 そのとき、ふたりで半分こしていたヘッドホンの中で、それまでずっと沈黙《ちんもく》しているばかりだった伊里野がついに口をきいた。

 ──なんでそんなこと聞くの?
 ──いや、その、だからつまりさ、あの榎本《えのもと》って人、自分では「伊里野の兄貴みたいなもんだ」って言ってたけどさ、ほんとに伊里野のお兄さん? 河口《かわぐち》が言ってた「自衛軍に勤めている兄」ってあの人のこと? ほんとにずっと一緒に暮らしてたの?
 沈黙。
 ──だってさ、ほら、あの人、いつも伊里野のこと「伊里野」って呼ぶだろ? 兄妹なのに妹のこと名字で呼ぶのおかしいなと思って、前から気になってたんだけど、つまりその、
 沈黙。
 ──あ、あの、へんなこと聞いてごめん、話したくないならいいんだ別に。

 榎本?
 水前寺はヘッドホンに中指をあてて耳をそばだてた。
 伊里野には航空自衛軍士官の兄がいる、という話は水前寺も知っていた。が、「榎本」という名前は初めて聞いた。いくつかの疑問が浮かぶ。
 ひとつ。ごく当たり前の兄・妹の関係なのだとすれば、「榎本」が伊里野|加奈《かな》のことを名字で呼ぶのは確かに妙だ。「兄貴みたいなもんだ」とはどういう意味なのか。
 ひとつ。そもそも浅羽《あさば》直之《なおゆき》は、伊里野加奈の兄の名前や、その兄が伊里野加奈を普段から名字で呼ぶなどということをなぜ知っているのか。浅羽直之はその「榎本《えのもと》」とやらに会ったことがある、ということか。だとすれば、いつ、どこで、どんな状況で会ったのか。
「──浅羽くん、『榎本』という名前に聞き憶《おぼ》えは──な、なんだねその顔は」
 夕子《ゆうこ》は目を見開き、あんぐりと口を開けていた。声が裏返る、
「──転校生なの?」
「誰《だれ》が?」
「──だから、あの伊里野《いりや》加奈《かな》って人」
 水前寺《すいぜんじ》は「何をいまさら」という目つきをする。
 夕子の頭の中で、すべてがようやく一本の線で結ばれた。
 転校生がそう何人もいるとは思えない。
「じゃあ、じゃあもしかして、お兄ちゃんがシェルターに連れ込んだのって、」
 水前寺は呆《あき》れた。
「はあ? なんだ知らんのか? いま君の兄上と一緒にいる彼女こそは過日のシェルター事件のもうひとりの当事者、伊里野加奈その人だ」
 知らなかった。
 普段から兄とは口をきかなくとも、毎日学校に通っていればいやでも耳にした。防空訓練中に「水前寺の腰巾着」がしでかしたという婦女暴行未遂事件の噂《うわさ》。夕子のクラスもその話で持ちきりだった。防空訓練のドサクサに転校生の女の子をシェルターに連れ込んで──
 まさか、
 あのへんな女が、その「転校生の女の子」だったとは。
 水前寺が大笑いした。
「浅羽特派員から聞いていなかったのか? 君ら兄妹は普段話もせんのか? どうも話がおかしいと思っていたが、君はそんなことも知らずにあの二人をつけ回していたのかね」
 ようやく笑い止むかと思えば水前寺は再び肩を震《ふる》わせ、
「──まあそうか、事が事だしな。浅羽特派員も妹にいちいちそんなことは言わんかもな。しかし、さすがの君も噂くらいは耳にしているだろう? 実に傑作だ、あの浅羽特派員が何と女子生徒をシェルターに連れ込んであ痛」
 込み上げる笑いにうつむいていた水前寺の頭を、夕子はぐーでぼかりと殴った。
「な、何をするかっ」
 夕子は耳からヘッドホンを引っこ抜いて席を蹴《け》った。
「ら、乱暴はやめたまえっ、こら、」
 そして夕子は水前寺の頭といわず背中といわず肩といわず、ぼかぼかぼかぼかぼかと拳骨《げんこつ》の雨を降らせた。
「帰る!」
 水前寺《すいぜんじ》はあわてて立ち上がり、
「ちょ、ちょっと待ちたまえよ浅羽《あさば》くん」
「はなしてよ!」
 夕子《ゆうこ》が大声を出したそのとき、ヘッドホンから、

 ──どうしたの? ワイヤーってなに?

 危うく聞き漏らすところだった。
 席から身を乗り出して夕子の手をつかんだまま、水前寺はぴたりと動きを止めた。ヘッドホンを耳に押しっけて一心に耳を澄《す》ます。
「はなしてって言ってるでしょばかあっ!!」
 夕子が水前寺の手を振り解こうとする。が、水前寺は瞬《まばた》きも身動きもしない。潜水艦《せんすいかん》の聴音手のような真剣さで、ヘッドホンから聞こえてくる音にひたすら意識を集中する。そして、

 ──トイレならそこだよ。うわ、ちょっと待ってよ、どうしたんだよ?
 椅子《いす》の足が勢いよく床をこする音、
 氷の入った紙コップが床に落ちる音、

「バレた」
 水前寺がつぶやく。
 夕子が怪訝《けげん》な顔をする。水前寺はやおら立ち上がってバッグをひっつかみ、夕子を引きずって走り出す。夕子はわけがわからず、
「なによ、どうしたの!?」
 答えない、お構いなしに水前寺は走る。三階へと続く狭苦しい階段の途中で突然、ヘッドホンの中に「ざりっ」というノイズが走る。感度を失ったレシーバーのスケルチ回路がノイズを切り落とし、ヘッドホンは白紙のような沈黙《ちんもく》に閉ざされた。もはや無駄だとは思いつつも、水前寺は足を止めてレシーバーのチャンネルを変更する。が、やはり無駄だった。バックアップの盗聴器が次々と潰《つぶ》されていき、しまいには靴底に仕込んだポジショントレーサーまでが応答しなくなった。
「──しかしあれだ、」
 水前寺の顔に壮絶な笑みが浮かぶ。
「おれの周りにはどうにも、女性陣の方に優秀な人材が多いらしいな」
 ようやく事態を察した夕子が、
「バレたって、盗聴器のこと? 気づかれたの?」
「残念ながら」
 と言いつつも、水前寺《すいぜんじ》のその面は、少しも残念そうには見えない。

 トイレに立った浅羽《あさば》が戻ってみると、伊里野《いりや》がテーブルに顔をうずめて何か書いていた。浅羽が「何してるの?」と尋ねるよりも早く、伊里野は口に人差し指を当ててナプキンを差し出した。
 ボールペンで、こう書かれていた。
『ワイヤーがついてる。だまっていっしょにトイレにきて』
「──どうしたの? ワイヤーってなに?」
 伊里野がいきなり手を伸ばし、黙《だま》れとばかりに浅羽の口をふさぐ。驚い《おどろ》た浅羽は反射的にその手を振り払ってしまったが、伊里野は浅羽の手をむんずとつかんで先に立って歩き出す。
「トイレならそこだよ。うわ、ちょっと待ってよ、どうしたんだよ?」
 伊里野がものすごい勢いで振り返り、また口に人差し指を当てて見せる。どうやら喋《しゃべ》ってはまずいらしい──それは理解できたが、なぜ喋ってはいけないのか、なぜ自分がトイレに付き添わねばならないのか、まるでわからない。
 スイッチが切り替わったかのように、それからの伊里野の行動は機械のように素早かった。
 まるで、シェルターに引っぱり込まれたあのときのようだった。
 伊里野は問答無用で浅羽を女子トイレに引きずり込んだ。トイレは狭くて薄《うす》汚くて、個室が三つに手洗いが二つあって、幸いにして誰《だれ》もいなかった。伊里野は嫌がる浅羽を一番近くの個室に連れ込むと、手に持っていた小さな何かを便器の中に投げ込んだ。伊里野がすぐに水を流してしまったが、白くて丸い、洋服のボタンのような形の何かだった。
「いま捨てたのなに?」
「タンクに両手をついて」
 言う通りにしないとただではおかない──そんな伊里野の目つきに気おされて、浅羽は言われるがままにタンクに両手をついて両足を広げた。背後から伊里野が両手で容赦なく身体《からだ》じゅうを探る。外国の映画でお巡りさんがよくやる身体検査みたいだと浅羽は思う。伊里野は浅羽のズボンのポケットからサイフを抜き取って中身を調べ始め、すぐにカードスリットの中から さっきと同じような洋服のボタンを見つけ出した。便器に投げ捨てる。
「こっちむいて」
 そうした。
 いきなりTシャツを胸の上まで一気にめくり上げられた。
「うわあっ!」
 思わず声が出た。が、伊里野の表情はあくまでも真剣そのもので、裸にひん剥《む》いた浅羽の上半身を裏も表もなめるように調べ、
「ズボン脱いで」
 う、嘘《うそ》だろ!?
「早く」
 そ、そりゃあぼくだってあのとき伊里野の胸見たけどさ、あ、あれはそうしろって言われてしかたなくやったことだし伊里野だって気を失ってたし! ちょ、ちょっと待って!! パンツは、パンツはやめて!! いや─────────────────────っ!!

「ここかぁ───────────────────────────────────っ!!」
 夕子《ゆうこ》を小脇《こわき》に抱え、水前寺《すいぜんじ》は三階のトイレに乱入した。
 三階のトイレは男女共用で、ドアを開ければ即個室の一人用で、便器と手洗いがあるだけの逃げも隠れもできない狭苦しい空間で、中には誰《だれ》の姿もなかった。そりゃあドアに鍵《かぎ》はかかっていなかったが使用者が鍵をかけ忘れることだってあり得るわけで、幸いにして中に誰もいなかったところを見ると、どうやら神様もたまには仕事をするらしい。
 ぬう、と水前寺はうなる。
「ちょっとはなしなさいよ降ろしてよなに考えてんのよばかあっ! 盗聴器《とうちょうき》がバレちゃったんならもうおしまいでしょこれ以上追いかけたってしょうがないでしょ!?」
 いーやそうはいかん、と水前寺はつぶやく。
「──伊里野特派員。お手並み拝見だ」
 はなせ降ろせとわめく夕子を小脇に抱えたまま、水前寺は回れ右をして走り出す。

 見られた。
 おまけに、鼻と鼻がくっつきそうな至近距離からわけのわからない質問をされた。最近だれか知らない人に声をかけられたりしなかった? アメリカの本当の首都はどこ? 家に無言電話がかかってきたことはある? ウォーレン委員会のメンバーのうちで人間じゃないのは誰と誰? ジュースの自動販売機の中に人がいるって思ったことはない? MJ-12文書が偽物である根拠を三つ挙《あ》げて。
 四階の女子トイレを出た。浅羽《あさば》は世にも情けない面でズボンのベルトを直し、伊里野にずんずん手を引かれて同じようなドアの並ぶ狭い廊下を走った。
 突き当たりの裏口から非常階段に出た。
 伊里野は裏口のドアに「仕掛け」を残し、浅羽の手を引いて赤|錆《さび》だらけの階段を一気に駆け下りた。ビルの裏手は細長い駐輪場《ちゅうりんじょう》になっていて、三方を建物の背中に囲まれ、残る一方が表通りへと通じる路地に面していた。
 駐輪場に落ちるビルの影の中で伊里野は足を止め、一秒だけ考えた。
「見張ってて。百秒でできる。帰ってちゃんと練習したから」
 ──百秒? 練習?
 浅羽《あさば》がなす術《すべ》もなく見守る中、伊里野《いりや》はつぎはぎだらけのアスファルトにひざをつき、今日一日肌身離さず持ち歩いていた黒いバッグのファスナーを引き開けた。中にはラップトップ型のコンピュータと接続ケーブルと工具類と、浅羽には用途のよくわからない様々な機械が整然と詰め込まれていた。
 そして、伊里野の目の前には、一台のスクーターがあった。
 伊里野がナイフを抜いた。背中から。制服の下に手を突っ込んで。グリップにパラシュートコードがぎっちりと巻かれた、銃刀法違反まちがいなしの見るも恐ろしいナイフだ。素早く逆手に握り直し、スクーターの鼻っ面にブレードをどかりと突き立て、FRPのカウルをボール紙か何かのように切り開いていく。むき出しになったイモビライザーにコンピュータのケーブルを接続してコードブレイカーを起動、ミリタリーチップの演算速度に物を言わせて|総当たり攻撃《ブルートフォース》で暗号|鍵《かぎ》をぶち破る。マイナスドライバーを鍵穴に突っ込み、無理矢理シリンダーごと回転させてメインスイッチをONする。すべての道具を撤収《てっしゅう》し、シートにまたがって車体を両足ではさみ、力任せにハンドルを回してロックを破壊《はかい》する。ブレーキを握り、イグニションボタンを押した。
 エンジンは一発でかかった。
 百秒はかからなかった。
「乗って!」
 そのとき、ふたりの頭上で騒《さわ》ぎが巻き起こった。浅羽が呆然《ぼうせん》と仰ぎ見れば、四階の裏口に残してきた「仕掛け」が作動していた。消火器がホースをヘビのようにのたくらせ、白煙を撒《ま》き散らして暴れ回っている。
「早く乗って!!」

 二人乗りのスクーターが路地へと飛び出していく。消火剤の雲が引き、全身真っ白になった水前寺《すいぜんじ》は非常階段の四階に立ち尽くして叫ぶ。
「見事であるっ!! 素晴らしいぞ伊里野特派員っ!! ジャーナリストたる者そうでなくてはいかんっ!! 改めて歓迎しょう、園原《そのはら》電波新聞へようこそっ!!」
 その小脇《こわき》に抱えられている夕子《ゆうこ》がけほんけほんと咳《せ》き込んで、
「ばかぁ───────────────────────────────っ!!」
 と水前寺を罵倒《ばとう》した。
「帰るうっーはなして誰《だれ》か助けてっ、人さらい─────────────っ!!」
 その罵倒はすぐに悲鳴に変わった。水前寺は夕子が目を開けていられないくらいの勢いで非常階段を駆け降り、駐輪場《ちゅうりんじょう》から路地を回り込んで表通りへと走り出る。走りながら横目で確認する、スクーターはすでに通りの50メートルほど先にいて、一方通行を逆走しながら全速力で逃げていく。水前寺《すいぜんじ》はポケットから取り出したスキーマスクをかぶって顔を隠し、はなせ降ろせと暴れる夕子《ゆうこ》を抱えて三歩で通りを横断する。夕子がいみじくも言った通り、水前寺のその姿は誰《だれ》がどう見ても人さらいそのものだった。

 恥ずかしいの照れくさいのと言っている場合ではなかった。伊里野《いりや》の腰に力いっぱいしがみついていないと振り落とされそうになる。伊里野が右へ左へと進路を変えるたびに、ただでさえ安定のよくない車体は恐ろしいほどに傾き、滑りやすいシートから尻《しり》がずり落ちる。伊里野の背中のナイフがほっぺたにごりごりして痛い。おまけに、風にあおられた伊里野の髪に顔面を洗われて周囲の様子がろくに見えなかった。スニーカーのすぐ下をアスファルトが目茶苦茶な勢いで流れていく、路面の白線が弾き飛ばされるように右へ左へと踊る。時速200キロくらいで走っているのではないかと思う。
 突然、背後でクラクションのブーイングが巻き起こった。
 追手はすぐそこまで乗ていた。30メートルほど後方、ごみ箱を轢《ひ》き殺しながら路地から横っ飛びに飛び出してきたバイクが車体を傾けて遠心力を強引にねじ伏せる。かなり年季の入った感じのスーパーカブで、乗っているのはマスクで顔を隠した男。後ろに二人乗りで誰かを乗せているようにも見えたが、伊里野の髪が邪魔《じゃま》でそれ以上ははっきりしなかった。
 ──あの排気音《おと》、
 浅羽《あさば》は背後を振り返ろうとした。うっかりすると口にまで入ってくる伊里野の髪を払いのけて、耳に憶えのあるエンジン音の正体を確かめようとした。が、その途端に伊里野が身体《からだ》ごと投げ出すように車体を左に倒し、スクーターは宙を飛ぶ勢いで歩道に乗り上げて狭い路地へと突入した。反対側の通りへ抜けて右折、再びスロットルを一気に開ける。クラクションの大合唱、腰を抜かして歩道にへたり込んだ老人が罵声《ばせい》とともに杖《つえ》を投げる。
 速い。
 振り切れない。腕の違いか馬の違いか、スーパーカブは伊里野がひとつ角を曲がるたびに確実に距離を詰めてくる。

 水前寺が叫ぶ。
「あま─────────────いっ! おらおらぁどうしたどうしたぁ伊里野特派員っ! そんなことで一人前のジャーナリストになれるかあ────────────っ!!」
 夕子が叫ぶ。
「もういやあ────────────っ!! 止めて降ろして───────────っ!!」
 スクーターを追う。夏の熱気が粘土のような重さで身体《からだ》にぶつかってくる。街の中心からまだそれほど遠く離れたわけでもないのに、周囲には背の高い建物はひとつもなくなり、商店の装いは一挙に泥臭くなり、どうかすると住宅の隙間《すきま》に畑や田んぼが姿を見せる。それらすべてが吹っ飛ぶように背後へと流れ去っていく。水前寺《すいぜんじ》は笑い、夕子《ゆうこ》は止まれ降ろせと叫び、スーパーカブはじりじりと伊里野《いりや》を追いつめる。伊里野がこのあたりの道にあまり詳しくないのは明らかだったが、その気になれば先回りできるチャンスがあっても水前寺はあえてそれをせず、背後|霊《れい》のようにぴったりとケツに食らいついて伊里野を追い立てる。
 スクーターが再び路地へと逃げ込み、路駐《ろちゅう》されている車の列を縫《ぬ》って県道へと抜けた。
 伊里野は西から南へと進路を変えた。その意図を読み切って水前寺はにたりと笑う。この先には商店街、さらにその先には住宅街が続いている。派手なエンジン音を立てて住宅街を走り回り、住民に通報させてそのドサクサに逃げ切る腹だ。そうはさせない──踏み切りを突っ切り赤信号を突っ切り、止まれ降ろせと叫ぶ夕子を無視して水前寺はひたすらに追いすがる。ひとつ角を曲がるたびに道が細くなる。伊里野が路肩に止まっていたトラックをぎりぎりで避けようとして軽く接触し、スクーターの右のミラーが吹っ飛んで転がってくる。道がゆるい下り坂になり、行く手に町中を流れる川と橋と変則的な十字路と、
 ノラ犬。
 コケた。
 その瞬間《しゅんかん》、水前寺にはそう見えた。
 その瞬間、そう見えるくらいの勢いで、伊里野は車体を投げ出すように傾けた。無謀極まりない速度にタイヤのグリップが負けて後輪が流れ、それでも伊里野は十字路をぎりぎりで右折するコースにスクーターをねじ込もうとした。
 水前寺が見ていたのは、そこまでだ。
 あるいは夕子との二人乗りでなかったら、水前寺にも伊里野と同じことができたかもしれない。が、伊里野の極端な行動に気を取られて反応が遅れた。あわてて逃げようとしたノラ犬に進路をふさがれたことも災いした。結果としてスーパーカブはほとんど何もできないままに直進し、ガードレールに接触し、『魚釣り禁止』の立て看板を飛び越えて宙を舞い、夕子も宙を舞い水前寺も宙を舞った。
 夕子は叫んだ。
「きゃああああああああ─────────────────────────────っ!!」
 水前寺は叫んだ。
「しあわせでした────────────────────────────────っ!!」
 夕暮れの近い夏の空は、美しかった。

 スクーターが減速し、ようやく背後を振り返った浅羽《あさば》は、流れのゆるい水面《みなも》に立ち上がる壮絶な水柱を確かに見た。
「お、落ちた落ちた! 川に落ちたねえ伊里野ってば!」
 何を言うべきかもどうするべきかもわからなくて、浅羽《あさば》はとにかく「落ちた」をひたすら繰《く》り返した。スクーターを徐行させていた伊里野《いりや》は片方だけ残った左のミラーをちらりと見て、再びスロットルを開けた。いきなりの加速に浅羽の「落ちた」が「うわあ」に変わる。
 川ぞいの道を、二人乗りのスクーターが走り去る。

        ◎

「──そ、それじゃ、園原《そのはら》基地に連れてってもらうためだけに、ほ兄ちゃんに無理矢理デートさせたわけ!?」
「それもある」
 夕焼けを映したゆるい流れのど真ん中に、水前寺《すいぜんじ》のスーパーカブが逆さまになって突き刺さっている。
 水前寺と夕子《ゆうこ》は、コンクリートで固められた川岸の斜面にぼんやりと座っている。ふたりとも泥臭い水で全身ずぶ濡《ぬ》れだった。
「それも──って、他《ほか》にまだ何かあるの?」
「──いや、これはおれの考えすぎかもしれんのだが、」
 そう言って大の字に寝転がり、
「どうも気になるんだ。伊里野特派員には少し奇妙なところがある」
「どんな?」
 水前寺は、一度大きく息を吸い込んで考えをまとめた。
「バスと電話だ」
「なにそれ」
「伊里野特派員は、毎朝バスで学校に来る」
「──それが?」
「見樽《みたる》車庫発、園原基地経由、園原駅ゆきのバス。八時十三分に『園尿中学校正門前』のバス停で降りる。帰りは同じ路線の折り返しに乗る」
「だからなに」
「夏休みの少し前まで、そんなバスは走っていなかった」
 水前寺が何を言おうとしているのか、夕子にはまだよくわからない。
「園交バスは真っ赤っかの赤字経営だ。ど田舎《いなか》の数少ない公共の交通機関だしジジババの足だからって名目で、例によって市がムダ金を捨てるごみ箱として使ってる。にしても、どうしてまた新しい路線を引かなきゃならんのかよくわからん。それに、路線を走ってみりゃすぐわかるんだが、どう見たって採算の取れるようなコースじゃないんだ。ほとんどが山道や農道ばっかりで、こんなところから客が乗るわけないって場所に真新しいバス停がばかすか立ってる。実際見ると異様だぞ、周りに家なんか一軒もない峠の道に待合室つきのぴっかぴかのバス停があるのって」
 それは確かにちょっと気味が悪いだろうと夕子《ゆうこ》は思う。でも、バスの路線と伊里野《いりや》加奈《かな》と一体何の関係が、
「それと電話。浅羽《あさば》くん、君は確か、伊里野特派員が今日、駅前の待ち合わせ場所から映画館へ行く途中で電話をかけていたと言ったな」
「え? あ、うん」
「伊里野特派員は電話好きだ。毎日二回、必ず電話をかける。午前中に一回と午後に一回、学校の正面入り口の公衆電話から。あそこには電話が三台あるが、伊里野特派員のお気に入りは右端の電話で、いつも必ずそこを使う」
 夕子は初めて違和感を覚えた。
「──でも、あの電話、」
「そう。右端のはずっと前から故障続きだ。しかし、伊里野特派員が使うときにはなぜか調子がいいらしい。さて、伊里野特派員は一体どこに電話をかけているのか? まったく喋《しゃべ》らないしすぐに受話器を置いちまうし、どうも情報サービスのようなものを聞いているのではないかと思うんだが──」
「天気予報みたいな?」
 水前寺《すいぜんじ》がうなずく。
「番号はわかんないの?」
「だぶん#0624だと思うんだが、まだ確信はない。あまり近くからのぞき見して気づかれてもまずいし」
「かけてみた、その番号?」
「もちろん。録音された女の声に、番号を確かめてもう一度かけ直せと言われた」
 夕子はほんの少しだけ、恐《こわ》いと思った。
 思考が妄想の中に墜落した。たとえばセミの鳴く昼下がり、誰《だれ》もいない廊下を夕子は歩いている。廊下の行き着く果てには校舎の正面入り口があって、伊里野加奈がこちらに背を向けて受話器を耳に当てている。その足元にはバレーボールが転がっており、伊里野加奈は人間には不可能に思える角度で首を右に傾けており、受話器から漏れる女の声は夕子の耳にも微《かす》かに聞こえてくる。お客さまのおかけになった電話番号は現在使われておりません、番号をお確かめになってもう一度おかけ直しください。今すぐ逃げようと夕子は思う。しかし身体《からだ》が動かない。やがて、伊里野加奈の受話器から漏れ聞こえていた女の声がこんなことを言う──背後をお確かめになってもう一度おかけ直しください、お客さまの背後に誰《だれ》かがいます。突然、伊里野加奈が獣《けもの》のように振り返る。顔面から首にかけて、何十枚もの絆創膏《ばんそうこう》がびっしりと貼《は》り付けられている。目も鼻もないその顔に唯一残された口だけが耳まで裂けて夕子を
「この電話の話はバスの話ともからむ。さっき言った新しい路線の新しいバス停には、不思議なことに必ず電話があるんだな」
 水前寺《すいぜんじ》の声に救われた。
 夕子《ゆうこ》は、泥臭い水で全身ずぶ濡《ぬ》れの現実へと引き戻された。コンクリートで固められた川岸の斜面に座っている、隣《となり》には水前寺が大の字に寝転がっている。
「場所によって電話ボックスだったり待合室におかれた公衆電話だったりと色々だが、共通点がひとつある。どこのバス停の電話も決まって調子が悪いんだ。まったく通じなかったり、通じてもコインやテレカが戻ってこなかったり」
 もう夕方のこの時間に、商売熱心な物干し竿《ざお》の行商が川向かいの道をゆっくりと流していく。どれでも二本で千円、古くなった物干し竿の下取りもいたします。
「まだある。やはり電話にまつわる話だが、伊里野特派員はしょっちゅう校内放送で職員室に呼び出される。君も聞いたことがあるだろう?」
 夕子は記憶《きおく》を探ってみるが、普段から自分に関係のない放送など気にもしないので、あまりはっきりと憶《おぼ》えてはいなかった。
「伊里野特派員は毎回、誰《だれ》それから電話が入っているから至急職員室まで来い、という呼び出され方をする。今のところ、この『誰それ』の部分には三人の名前が挙《あ》がっている。田中と鈴木と佐藤だ。そういう名前なんだから仕方ないだろうと言われればそれまでだが、何かの暗号のように聞こえなくもない。で、伊里野特派員は、この三者からの電話を受けるとかなり高い確率でそのまま早退する。一体どこへ行くんだろうな?」
 頭が混乱し始めている。
 ゆうべから園原《そのはら》駅周辺で飛び交っていたらしい謎《なぞ》の暗号通信。
 映画館に現れた挙動不審の二人組。
 伊里野加奈の入部届に押されていた『椎名《しいな》』の印を、自分は確かにこの目で見ている。うちの学校の職員で椎名といえばひとりしかいない。黒部《くろべ》のオバアと交代でやってきた養護《ようご》教諭《きょうゆ》の椎名|真由美《まゆみ》。朝礼で田代《たしろ》のハゲにそう紹介されて、ひとこと挨拶《あいさつ》をとマイクを渡されたらいきなり英語の歌を熱唱して全校の度肝《どぎも》を抜いた。あれもやはり夏休みの少し前。水前寺の言う、怪しいバスの路線が新設された時期と同じころ。
「──幽霊《ゆうれい》に見えてんのよ、枯れススキが」
 ばかばかしい、と夕子は思った。
 そういう目で見れば何だってそう見える。軽トラで住宅街を流すタケヤサオダケは北のスパイかもしれないし、改札口にいる駅員は電車の爆破《ばくは》を企《たくら》むテロリストかもしれない。
「かもしれん」
 が、水前寺はあっさりとそう認めた。
「それはいいんだ別に。面白ければ、枯れススキだろうがドライフラワーだろうが」
 むくりと上体を起こし、川の真ん中に突き刺さっているスーパーカブのタイヤめがけて小石を投げる。
「ただ、そんじょそこらの枯れススキとは少しわけが違うのかもしれない、とは思ってる。浅羽《あさば》特派員をけしかけて普段と違う状況に誘い込めば、何か起こるんじゃないかっていう期待はあった。その結果はまあ『多少の収穫《しゅうかく》はアリ』ってところだが、ちょっと慎重にやりすぎたな。もっとしつこく追い回した方がもっと色々な尻尾《しっぽ》を出してくれたかもしれん」
 うそつけ、と夕子《ゆうこ》は患う。それまでの尾行はともかく、最後の追いかけっこは絶対、毛虫のたかった枝で女の子を追いかけ回すのと同質の行動だったと思う。
「──それと浅羽特派員だが」
 幾つ目かの小石がようやくタイヤに当たった。
「あいつはあいつで、どうも何か知っているようなフシがある。最近どうも様子がおかしい。何か隠しているというか腹に一物あるというか」
 そこで水前寺《すいぜんじ》はひひひひひひひひひと笑った。
「──まあ、例のシェルターの一件からまだ間もないしな。なにせ上着をはだけた伊里野《いりや》特派員の上にまたがっていたというしな。伊里野特派員の名前が出ただけでビクつくのもアイツらしいと言えばまあそうだな」
 夕子は思い出す。
 防空訓練の翌日。夢中で消した黒板の文字。机の上の下手くそな落書き。
「どわあっ!?」
 夕子に背中を蹴《け》り飛ばされて、水前寺はコンクリートの斜面を転がって顔から川に落ちた。
「い、いきなり何をするか貴様あっ!!」
 泥まみれになった水前寺を真っ向にらみつける。頭が煮えている。口ゲンカは苦手だ。悔しいという気持ちだけが空回りして、気の利《き》いた啖呵《たんか》など何も思いつかなくなってしまう。後になってからああ言ってやればよかったこう言ってやればよかったと臍《ほぞ》を噬《か》むのだ。
 叫んだ。
「ばか────────────────────────────────────っ!!」
 まるで言い足りない。
「帰るっ!」
 しかし、このまま角《つの》突き合わせていれば最後には必ず言い負かされる。それが恐《こわ》くて、言うだけ言い捨てて逃げようと思った。回れ右、断固とした態度で最初の一歩を踏《ふ》み出したそのとき、背後から伸びてきた大きな手に襟首《えりくび》をぐいとつかまれた。
 水前寺は、相手が宇宙人だろうが女の子だろうが容赦はしない。
 つかんだ襟首を力任せに引き寄せ、泳いだ足元に踵《かかと》をぶち込み、足場の傾斜で身長差を相殺《そうさい》して、水前寺は夕子を地蔵背負いでぶん投げた。一回分の悲鳴を上げる間もなく、ドブっぽい水音とともに夕子《ゆうこ》は頭から川にたたき込まれた。水前寺《すいぜんじ》は会心の手応《てごた》えに思わずガッツポーズを決め、がっはっはっはーと晴れがましく笑う。
「おやおや大丈夫かね浅羽《あさば》夕子くん! 川っぺりでは足元と口元には気をつた方がぶっ!?」
 しぶきを上げてすっ飛んできた夕子の靴《くつ》が水前寺の顔面を捉《とら》えた。水前寺は盛大な水柱を上げてひっくり返り、盛大に泥水を吐き出しながらすぐさま起き上がり、
「婦女子と思って手加減しておればつけあがりおって!! もう勘弁ならん!!」
 気の利《き》いた啖呵《たんか》など、何も思いつかなかった。
 もう何も考えられない。もうひとかけらの勇気さえも要らない。逆光の中の巨体を、20センチ以上の身長差を恐《こわ》いとすら思わなかった。腰まである泥水を跳ね飛ばし、気合とも泣き声ともつかない叫び声を上げて夕子は水前寺に突っかかっていく。水前寺が真っ向受けて立つ、跳躍《ちょうやく》する、怪鳥《けちょう》の如き裂帛《れっぱく》の気合、
「食らえ胡蝶《こちょう》蹴《げ》りっ!! ほあちょ────────────────────────っ!!」
 夏の飛び蹴り男が、夕暮れの空を舞う。

 伊里野《いりや》は水上《みなかみ》神社の裏手にある雑木林にスクーターを乗り捨て、浅羽の手を引いて急ぎ足でその場を離れた。蚊《か》に食われながら田んぼの中の農道を黙々と歩き、見るからに祟《たた》りそうな地蔵尊の森を通り過ぎ、美影《びかげ》線のガードをくぐり、浅羽がへばるくらいのペースで機械のように歩き続けた。
「──ねえ、もう平気だよ、ここまで来れば大丈夫だよ」
 大丈夫かどうかは知らないけど少し休ませてよ、というのが本音だった。
 が、浅羽のそのひと声で、伊里野のスイッチは唐突に切れた。
 伊里野の歩みは途端に遅くなり、ついには道ばたに立ち止まってうつむいてしまった。本当にいきなりだったので、浅羽は伊里野が腹痛でも起こしたのかと思い、
「だ、大丈夫? 具合でも悪いの?」
 答えない。浅羽がのぞき込むとそっぽを向いて、真っ赤になった顔を隠そうとする。
「──あの、あのね、」
 蚊《か》の鳴くような声だった。
「ワイヤーをひとつ見つけたら、ぜんぶ調べないとだめなの。ひとつだけじゃないから。他《ほか》にもぜったいあるから」
 どうやら、トイレに引っぱり込んで裸にひん剥《む》いたことを弁解しているらしかった。
 聞けば、『ワイヤー』というのは盗聴器《とうちょうき》のことらしい。そのワイヤーが浅羽にはいくつも仕掛けられていた、だから自分はああいうことをした、仕掛けたのが誰《だれ》なのかはわからないけれど、たぶん北の工作員だと思う──伊里野はそういう意味のことを、やっと聞き取れるくらいの声で、実に下手くそな話し方で説明した。
「──あのさ、」
 しかし、浅羽《あさば》には浅羽の見解があった。昨日の夜、定食屋『しみず』で行われた秘密の作戦会議。部長のおごりだった。あのとき自分はトイレに行くために何度か席を立った。
 おまけに、自分たちを追いかけてきたあのスーパーカブ。聞き憶《おぼ》えのある排気音。
 ため息。
 予想すべきことだったと思う。
 それにしても、盗聴器を見ていきなり北のスパイを疑う伊里野《いりや》もすごいと思う。
「もういいよそれは。もういいからさ、」
 行こうよ──そう促しても、伊里野はなかなか歩き出そうとしなかった。浅羽はちらりと苛立《いらだ》ちを覚え、腕時計を見て、こういう言い方をした。
「いま六時だけど、時間大丈夫?」
 伊里野がようやく、帰らなきゃ、とつぶやいた。
 二人で歩いた。田んぼや畑ばかりだった周囲の光景の中に家がぽつぽつと現れ、夕暮れの農道はやがて、真新しい建売住宅が立ち並ぶ一帯を碁盤《ごばん》の目に区切る道のひとつになった。どの家もいやらしいくらいに同じに見える。行けども行けども貧相な街路樹は途切れることなく続き、どの電柱にも決まって同じレンタルビデオ屋の捨て看板がくくりつけられている。
 くたくたに疲れていた。
 半歩先を歩く浅羽は、ひと言も口をきかなかった。
 半歩後ろを歩く伊里野が、さかんに浅羽の様子を気にしていることにも気づかなかった。
 やがて、行く手に大きな公園とバス停が現れた。
 バス停の標識には「久川《ひさがわ》四丁目」とあり、くずかご代わりの一斗缶と乳製品メーカーの広告が入ったプラスチック製のベンチが置かれている。浅羽は額《ひたい》の汗をぬぐい、標識に針金でくくりつけられている時刻表を確認した。
 園原《そのはら》基地経由の見樽《みたる》車庫ゆき、六時五十七分。
 あと三十分ほどで、このデートも終わりだ。
 ほっとしている自分が心のどこかにいた。
 公園を見渡す。入り口に看板が出ている。『リバーサイドこども広場』というゴシック体の下にカッコつきで『園原市久川地区第七避難所』と書かれている。フェンスで囲まれた敷地《しきち》は異様なくらいに広く、原色のペンキで塗装された様々な遊具があり、野球もできればヘリも着陸できるグランドがあり、屋根のついた水飲み場があり、豪勢な造りの公衆便所があり、うっかりすると見落としてしまいそうなシェルターへの入り口がある。
 子供の姿は、まったくない。
 珍しいことではなかった。「カッコつきの公園」はどこでも大抵そうなのだ。防空戦略上の都合が最優先で、その地域に子供が多いか少ないかなどということは端《はな》から考慮《こうりょ》されずに作られるからである。この種の公園が園原市には無数にあって、「ガキの数よりもブランコの数の方が多い」とは、園原《そのはら》市の住人がオラが町を揶揄《やゆ》するときの常套句《じょうとうく》のひとつだった。
「中で待ってようか」
 バスを待っている間、ふたりでブランコに乗る。
 我ながらいいアイデアだ。疲れた頭で浅羽《あさば》はそう考えた。
 部長のせいで今日のデートは目茶苦茶になってしまった。無論、自分が部長を一方的に責めることなどできない。そもそも部長が言い出さなければこのデートはなかったわけだし、その裏に不純な動機が隠れていることも自分はすべて承知の上で話に乗ったのだから。
 それでも、せめて最後くらいはきれいに締《し》めようと思う。
 そう思って、ブランコを指差して、横目で伊里野《いりや》の反応をうかがった。
 伊里野の表情が凍りついている。
「どうしたの?」
 何かいるのかと思って公園を振り返った。何もいない。
「──ねえ、中にも座るところあるしさ、ここで待ってるより」
 そこで浅羽は言葉をなくした。
 伊里野がまた鼻血を出している。
 伊里野は少し左に首をかしげ、目を見開いて公園を見つめていた。筋肉が硬直しているのが傍目《はため》にもわかる、細い首筋が不自然な力みに震《ふる》えている。あごを伝った鼻血が学校指定の靴《くつ》に滴《したた》り落ちる。
 何かつぶやいた。英語のようだったが、浅羽には聞き取れなかった。
 突然、糸を切ったように全身の緊張《きんちょう》が解けて、伊里野の身体《からだ》が左に倒れかかった。
 浅羽があわてて抱き止める。
 夢中で伊里野の名前を呼ぶ。
「──だいじょうぶ、へいき、」
 その言葉の通り、伊里野はどうにか自分の足で立ち、ポケットティッシュを取り出してのろのろと鼻血をぬぐった。
「ほ、ほんとに平気? とにかく座った方がいいよ、ほら」
 とにかく日陰で休ませよう、そう思って、浅羽は伊里野の手を引いて公園の中へ入ろうとするが、歩道の敷石《しきいし》と公園の遊歩道との境目で、伊里野はまるでそこに結界でも張られているかのように一度立ち止まった。が、浅羽に何度も促されて結局は公園に足を踏《ふ》み入れ、水飲み場にあるコンクリート製のベンチに腰を下ろした。
「あの、」
「もうだいじょうぶ。ほんとに」
 そうは思えない。さっきの様子は尋常ではなかった。
「でもさ、今も顔色よくないし、」
 伊里野《いりや》は無言。
「ねえ、もし具合が悪いんだったら誰《だれ》かに電話して迎えに来てもらうから、」
 そこで浅羽《あさば》の言葉は潰《つい》えた。
 結局、自分が本気で心配して何を尋ねても、伊里野は何も答えてくれないのだ。
 今日一日、伊里野には本当に色々なことを尋ねた。しかし、伊里野はどこまでもいつもの伊里野で、肝心なことには何も答えてはくれなかった。いつものことだったはずなのに、それが今日の浅羽にはひどくこたえた。なにしろ今日はデートなのだから、普段と違う一面を見せてくれるのではないか、という期待が心のどこかにあったのだろう。
 そのデートも、もうすぐ終わる。
 ため息が出た。
 疲れていた。
「──ごめん。答えてくれないんだよね、どうせ」
 伊里野が息を呑《の》む音が聞こえた。
 言い過ぎた、そう思った。
 取り返しのつかないドジを踏《ふ》んだ。「ごめん」はともかく「どうせ」はまずい。疲れのせいで頭が回っていなかった。考えなしのひと言がスキだらけの頭からこぼれ落ちてしまった。
「あ、違うんだその、立ち入ったこと聞いちゃったなと思って、」
 浅羽がしどろもどろになって懸命《けんめい》の言い訳を始めたそのとき、どこかでセミが鳴き始めた。

「約束する? 誰にも言わないって」

 それは、浅羽の懸命の言い訳を容易に断ち切るほどの、伊里野の口から出たとは思えないほどの強い口調だった。伊里野は相変わらずうつむいている。が、見開かれたその目に普段とは違う力がこもっている。スカートを握り締めた両手をじっと見つめている。
「ぜったい、ぜったい、ぜったい誰にも言わないって約束できる?」
 セミの鳴き声がじわじわと大きさを増していく。夕暮れにはまったく似つかわしくない、人の身体《からだ》から汗を絞り取るような鳴き方をするセミだった。
「一回しか言わない。質問するのもだめ。具体的な地名や日付は言えない。それでもいい?」
 攻守は瞬《またた》く間に逆転していた。
 浅羽は完全に呑まれていた。ビビっていた。伊里野は今までずっと、本当はしたい言い訳もせずにひたすら唇を噛《か》み締めていたのかもしれない。首を横に振るのなら今しかない。「ごめん」ではすまない、「どうせ」はもう通用しない。ここから先に踏《ふ》み込むのならば、伊里野と同じ覚悟を決めなくてはならない。
 浅羽《あさば》は、首を縦《たて》に振った。
「──わかった、約束する。けど」
「訓練中に仲間が死んだの」

        ◎

 夕子《ゆうこ》は思い出す。防空訓練の翌日。字が間違っていたことまで憶《おぼ》えている。
 浅羽の兄貴は変熊兄貴。
 朝、教室の後ろの黒板いっぱいにそう書かれていた。怒り狂ったギーが織田《おだ》に食ってかかった。犯人は織田に決まっていたからだ。水前寺《すいぜんじ》が教室に挨拶《あいさつ》にやって来たあのときも、バカでスケベでお調子者の織田は誰《だれ》よりもしつこく夕子をからかっていたからである。ギーに問い詰められるまでもなく、織田は黒板の文句を書いたのが自分であることを認め、ギーの振り上げた拳《こぶし》を大げさに怖がって女の腐ったような悲鳴を上げた。夢中で黒板の文字を消して席に戻った夕子は、自分の机にチョークで描かれた下手くそな落書きに気づいた。下手くそすぎて、吹き出しの中の「いやーんお兄ちゃんのえっちー」という文字を読むまでは、一体何が描かれているのかわからなかった。そして、気がついたときには夕子は織田の目の前にいて、ニキビだらけの顔面にぐーを入れていた。ダウンするまでにもう三発入れた。ギーに止められ、先生が来て、床にたれた鼻血を掃除させられた。帰りに寄ったコーヒースタンドで、ギーがなぐさめにもならないことを言った。
 ──あいつさあ、夕子に気があるんだよ。

 宇宙人だろうが女の子だろうが容赦はしない。水前寺はそういう差別はしない。
 ことによると、区別もしていないかもしれない。
「どすこお────────────────────────────────い!!」
 夕子は、ぼっかぼかにやられた。
 でかい靴《くつ》底で顔ぜんぶを埋め尽くされるような蹴《け》りをもらった。川下の浅瀬に倒れ込んで底まで頭が沈み、すぐさま両足をつかまれてジャイアントスイングで振り回され、今度は川上の深みに放り込まれた。
 どうにか立ち上がった。
 立ち上がるのがやっとだった。
 ところが、水前寺も川の中に倒れていた。ジャイアントスイングで自分も目を回したらしい。水死体のように泥水に浮いていたその身体《からだ》が突然ざばんと起き上がり、
「おのれ味な真似《まね》をしおって、もうその手は食わんぞ! 直ちに覚悟せよ、ドブ川に洗濯《せんたく》ばーさんはおらんからな! 脳内お花畑をスキップしながら岬沖までどんぶらこだ!!」
 拳《こぶし》に息を吐きかけて水前寺《すいぜんじ》が立ち上がる。が、どうやらまっすぐに歩けないらしい。三歩ごとにかっくんかっくんと軌道修正をしながらゆっくりと近づいてくる。
 もう足が前に出ない。腕も上がらない。
 川の水とは違うもので視界が滲《にじ》んでいく。
 悔しいという気持ちだけが空回りする。古傷の中に埋もれていた記憶《きおく》がこぼれ落ちていく。ギーの怒鳴り声と織田《おだ》の笑い声が、「浅羽《あさば》の兄貴は変熊兄貴」と「いやーんお兄ちゃんのえっち」が、兄を追い出した部屋でひとり兄を呪《のろ》った夜が、ウイルス兵器の予防注射と意地悪な高さの飛び箱が、いいことなどひとつもない名字と出席番号が、
 わざわざ教室まで挨拶《あいさつ》にやって来た水前寺の晴れがましい笑顔が、
 もう百年も昔のことに思える、どちらもまだ小学生だったころの、庭先に椅子《いす》を出して髪を切ってくれた兄の手の感触が。
 泣き声で叫んだ。

「ほ兄ちゃんは変態じゃないもん!!」

 拳の射程に夕子《ゆうこ》を捉《とら》える一歩前で、水前寺は立ち止まった。
「あ?」
「ぜんぶあんたのせいよ!! あんたのせいでほ兄ちゃんがおかしくなっちゃったのよ!!」
 水前寺は一瞬《いっしゅん》だけ考えて、
「──誰《だれ》がそんなことを言っとるんだ。女とふたりっきりでシェルターの中にいて手も足も出んような奴《やつ》の一体どこが変態か」
「手も足も出なかったなんて、どうしてそんなことわかるのよ!?」
「ではなぜお前はそう思う? みんながそう噂《うわさ》しているからか? 妹のくせして自分の兄貴がどういう奴かもわからんのか」
 水前寺はその場にざぶんと座り込んであぐらをかき、
「ったく。どこに引っかかっているのかと思えば」
 手首で口元をこすり、頬《ほお》の裏側を舌で探って血の混じった唾《つば》を吐き飛ばし、
「──いいか、よく考えろ。そもそもあの腰抜けにだな、女を押し倒して上着をひん剥《む》いてマウントポジションを取るなどという大それた真似《まね》ができると思うか?」
「ほ兄ちゃんは腰抜けじゃないもん!!」
「あのなあ、お前、一体どういう兄貴だったら満足なんだ? スキあらば女を押し倒せる兄貴か? それとも、逆立ちしてもそんなことはできない兄貴か?」
 夕子は答えなかった。ずずっと鼻水をすすった。
「まあおれが見るところでは浅羽特派員は完全に後者だな。女にすけべえなことをするなど夢のまた夢、世界中の時間を止めて透明人間になる薬を飲んでも無理だ。というわけで、シェルター事件に関して巷間《こうかん》囁《ささや》かれている噂《うわさ》はまったくの事実無根。あの浅羽《あさば》特派員にそんなことができるはずがない」
「でも、でも見たっていう人がいっぱいいるもん! ほ兄ちゃんが転校生を押し倒して乗っかってたって、実際に見た人が言いふらしてるんだもん!」
「そう見えたというだけだ。きっと、あの腰抜けがそこまでやらねばならん事情でもあったんだろう」
「何よ事情って!?」
 水前寺《すいぜんじ》は夕子《ゆうこ》を小|馬鹿《ばか》にするように鼻を鳴らした。
「おれに聞いてどうする。なにせこちとら枯れススキが幽霊《ゆうれい》に見える男だぞ」
「ススキでも幽霊でも何でもいいからっ!!」
 水前寺はため息を吐《つ》き、ざぶりと片ひざを立てて頬杖《ほおづえ》をついた。
「──浅羽特派員が、防空訓練のドサクサに転校生の女の子をシェルターに引っぱり込んで、けしからん行為に及ぼうとしたが未遂に終わった。お前が聞いている噂はそんなところか?」
 涙をぬぐいながら夕子がうなずく。
「誰《だれ》から聞いた? クラスの友達か?」
 夕子が再びうなずく。
「どうせまた聞きだろう。その友達も別の誰かからそんな話を聞いたというだけで、事件の一端を直接|目撃《もくげき》したというわけではあるまい。違うか?」
 夕子は三たびうなずく。まだ廊下でカメになっているときに訓練中止の放送が流れて、自分たちのクラスは担任の指示で教室に戻された。だから、シェルターのハッチが開いたときにその場にいた者は、自分たちのクラスにはひとりもいない。
「伊里野《いりや》特派員にまつわる不審な点が気になり始めてからだが、おれはシェルター事件に関しても独自にヒミツの調査を行っている。実際に事件を直接|目撃《もくげき》した奴《やつ》からも情報を集めた。断っておくが、浅羽特派員から直接話を聞くようなことはしていない。事ここに至っては、奴もすでに伊里野特派員の謎《なぞ》を構成する一要素だからだ。おれが嗅《か》ぎ回っていることを伊里野特派員にもらすかもしれんし、それでなくてもあいつはヒミツには向かん。すぐ顔に出るからな」
 尾行対象をバイクで追いかけ回していた奴の言うセリフか、と夕子は思ったが黙《だま》っていた。
 やはり本人の言う通り、水前寺は「面白ければそれでいい」のだろう。真相の探求が面白いうちは全力でそれをやるが、他《ほか》にもっと面白そうなことを見つけると、すべての興味《きょうみ》がすぐさまそっちに移ってしまうに違いない。
「では、ヒミツ調査の結果わかったことその一。決定的な相違点。巷《ちまた》の噂では浅羽特派員が転校生をシェルターに連れ込んだということになっているが、真相はその逆だ」
 泣きべそが一発で引っ込んだ。
「──え」
「浅羽《あさば》特派員が、伊里野《いりや》特派員に、引っぱり込まれたんだ。確かだ。二年四組の奴《やつ》らが見ている。お前も聞いたはずだ、あのとき中村《なかむら》のバカが無《む》警告《けいこく》の一次警報を鳴らしただろう。伊里野特派員は、自衛軍士官の兄と一緒に長いこと外国の軍事基地で暮らしてきたらしい。度肝を抜かれただろうな。パニックに陥った伊里野特派員は夢中でシェルターに駆け込んだ。廊下でカメになっている連中に向かって大声で何か叫んでいたという話もある。『そんなことをして何の役に立つ』とか、『死にたくなかったら一緒に来い』とか」
 水前寺《すいぜんじ》の指がぴんと立つ、
「疑問点その一。伊里野特派員は、閉鎖《へいさ》されていたはずのシェルターのハッチをどうやって開けたのか?」
 声がもれた。言われて初めて気がついた。兄が転校生をシェルターに連れ込んで云々《うんぬん》、噂《うわさ》は簡単にそんなことを言う。が、そもそも兄があのハッチをどうやって開けたというのか。
「あのシェルターは中央から、つまり園原《そのはら》基地から直接制御されている。手動での操作ができるとすればたぶん、制御母線からの信号が途絶したときくらいだろう。お前の兄貴を変態呼ばわりしている連中は、こういうことはあまり気にならんらしいな」
 二本目の指が立つ、
「疑問点その二。シェルターに駆け込んだ伊里野特派員はなぜ、他でもない浅羽特派員を道連れに選んだのか?」
「──それは、」
 入部理由、浅羽がいるから。
 水前寺は夕子《ゆうこ》の顔をじっと見つめてにたりと笑い、
「なんだその不満げな顔は。──まあいいさ、そういう理由なら。ただ、それ以外にも理由があるのかもしれんし、疑問点その一と並ぶ今後の、」
 水前寺が突然口をつぐんだ。
 さっきのタケヤサオダケがまた戻ってきた。二本で千円の物干し竿《ざお》を積んだ白い軽トラが、川向かいの道をさっきとは逆方向に流していく。
「──どうしたの?」
 水前寺は西日に目を細め、徐行する軽トラをじっと見つめている。が、やがて、
「──いや、いい。では次、浅羽特派員のマウントポジションについて。これには多くの目撃《もくげき》者がいる。だが、服をはだけた女の上にまたがっていたからといって、必ずしもワイセツな行為が行われていたとは限らんだろ?」
「じゃあ、なに?」
 水前寺は鼻から息を吐いて、
「言うまでもないが、シェルターの中で一体なにが起こったのか、その正確なところは当事者のふたり以外には知り得べくもない。これより以降は推測というよりむしろ想像になる。そのつもりで聞くように」
 夕子《ゆうこ》はうなずく。
「応急処置だ」
 夕子の目が丸くなる。
「なんで!? どうして?」
「伊里野《いりや》特派員はすぐに鼻血を出す。昼メシはたいてい購員《こうばい》部のパンと牛乳ですませているようだが、食べ終わった後にいつも大量の薬を飲む。詳しいことはまだわからんが、何らかの身体的なトラブルを抱えていることは間違いないと見ていいだろう。その伊里野特派員がシェルターの中で何らかの発作に見舞われたというのは、それほど突飛な考えではないと思う」
「──それで?」
「シェルターの周囲にはハッチのロックが解除される前から救急車も待機していたようだし、例の椎名《しいな》真由美《まゆみ》、あいつもうろちょろしていたらしいな。いいか、おれの想像はこうだ」
 水前寺《すいぜんじ》は身体《からだ》の後ろにばしゃんと両手をつき、胸を開いて背伸びをした。
「まず、伊里野特派員がシェルターの中で発作を起こす。意識を失ってばたんきゅー。浅羽《あさば》特派員大あわて。とにかく外部と連絡を取ろうとして、園原《そのはら》基地との直通電話で緊急《きんきゅう》事態を知らせる。しかし一度|閉鎖《へいさ》したハッチはすぐには開かない。事態は一刻一秒を争う。そこで、園原基地の誰《だれ》かが浅羽特派員にやるべきことを指示する。人工呼吸をやれと言われたかもしれんし、心臓マッサージをしろと言われたかもしれんし、心臓にアドレナリンを注射しろと言われたかもしれん。浅羽特派員は小便をチビりそうになりながらもすべて言われた通りにした。だから服がはだけていた。だから伊里野特派員の身体の上にまたがっていた。で、度胸一発さあやるぞというときに、あるいはやれやれこれでひと安心というときに、いきなりハッチが開いて外にいた全員にその姿を見られた」
 納得がいかなかった。
 真相がもし水前寺の言う通りならば、いくらなんでも、実際にその場で見た人には兄が何をしようとしていたのかくらいはわかったはずだと思う。
 が、
「そんなもんさ。もちろん、その場にいた全員が同じものを見たはずだ。ところが人間ってのは自分の見たいものしか見えないから、飛行機雲がUFOに見えるし自分の影が幽霊《ゆうれい》にも見えるし、千円札が鼻息でひらひらすれば超能力かと思う。おまけに、実際に噂《うわさ》がリレーされていくときの語り手になるのは一次|目撃《もくげき》者以外のその他大勢だから、話の内容だって無責任にどんどん変わるし、話し手にとってあまり興味《きょうみ》のないディティールはみんな踏《ふ》み潰《つぶ》される。元になった事件が何であれな、噂っていうレールに乗って語られ始めたら、最終的にはみんな『語るに易《やす》く聞いて面白い話』になっちまうのさ」
 そこで水前寺は夕子《ゆうこ》をずばりと指差す、
「おい信じるなよ、責任もてんぞ。以上はすべておれの想像だからな。あの腰抜けが暴行未遂をやらかしたなんて与太よりは、そっちの方がおれ的にはまだマシだって程度だ」
 夕子がまたふくれた。
「お兄ちゃん腰抜けじゃないもん」
「いーやあいつは腰抜けだ。まったくもって不甲斐《ふがい》ない。ちゅーさえすればこっちのもんだとあれほど言ったのに」
 夕子は右向け右をして川に背を向けた。
「帰るっ!」
 水前寺《すいぜんじ》がざばりと立ち上がった。
「ばいばい」
 夕子はざぶざぶと川から上がる。肩をいからせてコンクリートの斜面を上る。不意に立ち止まり、川に背を向けたまま、両の拳《こぶし》を握り締《し》めて叫ぶ。
「女の子が帰るって言ってんだからせめて送るよくらい言ったらどうなの!?」
「んだとこの」
 水前寺はうるさそうに斜面の上の夕子を見上げる。
「びしょ濡《ぬ》れのままひとりで帰るの恥ずかしいでしょ! あんたのせいなんだから責任とってあたしが家につくまで一緒に恥かきなさいよー」
 傷だらけの顔で振り返り、夕子は水前寺をにらみ降ろした。
 水前寺は川の中から夕子を見上げた。その顔にもいくつか痣《あざ》や傷があった。
「──んじゃあ、びしょ濡れついでにバイク引っぱり上げんの手伝え」
 夕子はむっとする。が、斜面を降りてざぶざぶと川に入った。
 夕暮れは深まりつつあった。
「しかしあれだ、送っていくのはいいが、」
「大丈夫よ。家の前まででいいから。もし誰《だれ》かに何か言われたら街でヤンキーにからまれてケンカになって、十六人目をやっつけたところで力尽きて川に放り込まれたって言うから」
「じゃあおれは裏路地で危うくUFOに連れ去られそうになって、迫り来る宇宙人どもをちぎっては投げちぎっては投げ、激闘《げきとう》五時間の未に力尽きて川に放り込まれたことにする」
 うん、と夕子はうなずき、
「それにたぶん家には誰もいないと思う。お兄ちゃんが先に帰ってなければ。父さん組の会合に行くって言ってたし、母さん少林寺《しょぅりんじ》の日曜クラスにも出てるから」
「!! てめーさてはそれか! ったく、こいつ何かかじってやがんなと思ってたんだ」
「けどまだ始めて半年くらい。母さんにくっついてときどき道場に行くだけ」
「しかしまだまだ甘いな。オレ様の敵ではない」
「なにそれ! だいたいねーあんたいっつもあーなの!? 女の子ぐーで殴るの!?」
「は。見下げ果てた奴《やつ》め。適当に手加減された挙げ句に負ける方がよかったってか」
「負けてないもんっ!!」
「これだから婦女子は。憶《おぼ》えとけ、泣いたら負けで泣かしたら勝ちだ。ケンカの不文律だ」
「泣いてないもんっ!! 婦女子とか不文律とか関係ないもん!! まだ勝負はついてないんだから、また日を改めて決着をつけるんだから、逃げたら負けなんだから!!」
 ふたりがかりで、スーパーカブをどうにか道の上まで引っぱり上げた。
 夕子が先に立って歩く。水前寺《すいぜんじ》がカブを押してその後に続く。
「聞き忘れてたんだけど」
「ん」
 夕子《ゆうこ》は歩きながら振り返り、スーパーカブのカゴに突っ込んである水前寺のバッグを指差す。
「それ、中に無線機とかコンピュータとか入ってるんでしょ? びしょ濡《ぬ》れになっちゃったけど大丈夫? 映画館の二人組の写真を撮ったカメラもその中? ちゃんと撮れてる?」
「ああ、バッグは防水だからたぶん大丈夫だ。あの二人組がちゃんと撮れたかどうかは怪しいもんだが」
「もうひとつ聞き忘れてたんだけど」
「ん」
 夕子が立ち止まり、水前寺が立ち止まる。電柱とブロック塀と生垣とごみ集積所と自衛官募集ポスターの夕暮れ。カレーの匂《にお》いがする、アニメのエンディングテーマが聞こえる。
「お兄ちゃんて、毛、生えてる?」

        ◎

 ピーナッツ・アプローチのやり方を習ったのは、まだネバダの基地にいたころ。
 教えてくれたのはイエスタデイ教官。そんなのぜったい偽名だけど、経歴は最後まで教えてもらえなかったけど、たぶんどこかの共和国空軍にいた人だと思う。だってあれ、北のパイロットが敵のAWACSに忍び寄るときのやり方と同じだもの。
 まずね、高々度から高速侵入する。二機二組の合計四機で、ふた粒のピーナッツが空を飛んでるみたいに二機と二機で密集して、エンジンのブラストや翼《つばさ》の乱流に巻き込まれないぎりぎりのところまでぴったりくっついて。そのままシードにまっすぐ接近。ここからはタイミングが大切。こっちの存在はバレてるけど実は四枚いるってことはバレてない、そういうタイミングを狙《ねら》って二手に分かれる。ピーナッツの粒がふたつに割れるみたいに。二機はブレイクして進路を変えて、コブラとかフックとか、ドップラーをある程度無効化するマヌーバをやって、垂直にダイブしてマヌーバで失った運動エネルギーを回復。残りの二機はそのまま直進。うまくいけば、シードには直進してくる囮《おとり》の二機しか見えてない。囮の二機は適当なところまで侵入したら、反転して空域を離脱しちゃう。
 その隙《すき》にダイブした攻撃《こうげき》チームが低高度で高速侵入。シードをキルゾーンに捉えてパッシブロックオン。護衛《ごえい》のプレデターパッケージが今さら気づいたってもう手後れ、ラムジェット動力の長距離AAMを一斉射撃。
 習ったのはずっと昔だけど、一番最初に習った侵入戦術だけど、今でもわたしの得意技。
 けど、習ったばっかりのころは苦手だった。ちっともうまくできなかった。

「──ネバダの基地にはね、」
 セミが鳴いている。
「他《ほか》にもへんな名前の人がいっぱいいて、いろんな物のテストをいっぱいやらされた。YAGレーザーを使った欺瞞《ぎまん》システムとか巡航アクティブデコイとか、プレデターのスパイクを分析して脅威ライブラリを作ったりもした。マンタだってまだ半分は実験機で、乗るたびにコクピットの中のレイアウトまで変わってたりして大変だった。オーロラを開発したチームにデータを見せてもらえばテストだってもっとはかどったと思うんだけど、スカンクワークスって意地っぱりだから。あのころのネバダにはマンタのパイロットは五人いて、その中で一番年下だったのがわたし」
 伊里野《いりや》が右の手首からリストバンドを外す。「どうせ」ではすまない金属球が夕日を弾《はじ》いて鈍く輝《かがや》く。
「ピーナッツの訓練が始まってからは、毎日泣いてた。ちっともうまくできなかったし、仲間のひとりにいじめられたから。その子もマンタのパイロットで、男の子で、いつも意地悪で、五人の中でわたしの次に年下だった。けど、五人の中ではその子がエースだった。本当に何でもできて、へんな名前の人たちからも一番あてにされてた。けど意地悪で、わたしのマンタに落書きしたりヘルメットに接着剤つけたり、ピーナッツやるようになってからはその子、訓練中なのに、わたしの真似《まね》とか言ってエンジンをわざとストールさせてスピンしたりするの」
 伊里野の両手が、リストバンドを握り締《し》める。
「あるとき、その子とわたしとでピーナッツをやることになって、朝から大ゲンカした。わたしのヘルメットにおもちゃのパラシュートがくっつけてあったから。離陸してからもわたしすごく怒ってて、その子と一緒に訓練空域まで飛ばなきゃいけないのがすごく嫌だった。観測機からキューが出て、わたしは囮《おとり》の役をやることになってて、一緒に密着して飛んで、わたしのブレイクサインで、その子が9Gくらいのフックからダイブしたの」
 セミが鳴き続けている。

 今でも、原因不明ってことになってる。
 本当にそうなのかもしれないし、もし原因がわかってたとしても、永久に教えてくれないと思う。わたしはあのとき、わざとやってるんだと思った。またわたしの真似《まね》して、わたしのこと馬鹿《ばか》にしてるんだって。観測機から見てたイエスタデイ教官だって、ふざけるのもいいかげんにしろって怒ってた。
 でも、そうじゃなかった。
 それからね、誰《だれ》が言い出したのかはよく憶《おぼ》えてないんだけど、四人で墜落地点に行ってみようってことになった。もちろん誰にも内緒で。わたしたちは特別に許可されたとき以外は基地から出ちゃいけないことになってたから、フライトレコーダーからログを盗んできて、衛星写真と突き合わせて墜落地点の見当をつけて、こっそり基地から抜け出したの。
 ガソリンなんてすぐになくなっちゃって、そこからは車を捨てて、砂漠の中のまっすぐな道をずうっと歩いた。飛行機の音がしたり車が来たりすると、道のわきの岩陰とかにみんなで隠れたりして。ほんとは、基地の人たちが本気で追いかけてきたらあっという間に捕まっちゃったはずなんだけど、あのころのわたしはうまく逃げてるつもりだった。他《ほか》のみんなもそうだったと思う。四人の中にはわたしより年上の女の子がひとりいて、夜になるとその子が怖がって、もう帰りたいって泣くの。けどわたしは泣かなかった。どうしても墜落地点に行きたかった。仲間の墜《お》ちた場所を自分の目で見たかったし、破片も拾いたかったし。
 そのうちに食べる物も水もなくなって、もう歩けなくなって、岩陰でぐ

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4807
只看该作者 2楼 发表于: 2005-06-10
イリヤの空、UFOの夏 その3
秋山瑞人

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)瞬間《しゅんかん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)近接|戦闘《せんとう》

〔#〕:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)〔#改ページ〕
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     無銭飲食列伝
〔#改ページ〕





 放課後の昇降口で待ち伏せしで、声をかけようとして息を吸い込んだその瞬間《しゅんかん》、伊里野《いりや》とまともに口をきくのはこれが初めてであることに唐突に思い至った。恐くて足が震《ふる》えた。
「伊里野」
 その一撃《いちげき》で伊里野は石になる。危なっかしく身を屈《かが》めて、下から二段目の下駄《げた》箱からスニーカーを引き出そうとしたまま動かない。やがて首だけが斜めに振り返る、白い顔の鼻から下が肩から流れ落ちる髪に隠れ、瞬《まばた》きもせずに見つめ返してくるふたつの目は、火災報知器の赤いランプよりも表情に乏しかった。
 怯《ひる》んではならない、と晶穂《あきほ》は思う。
 晶穂は密《ひそ》かに呼吸を整える。伊里野の正面に回り込んで行く手を塞《ふさ》ぐ。身を屈めたままの伊里野めがけてあくまで強気な視線を投げ下ろす。猫《ねこ》のケンカだって高い所にいる方が有利だ。
「これから部活出るの?」
 伊里野は答えない。
 しかし、その視線は片時も晶穂から外れない。伊里野は下駄箱の中からスニーカーを引き出して床に置き、ゆっくりと身を起こした。晶穂の目と同じ高さで無言の視線が絡みつく。
 晶穂がため息をつく、
「──あのさ、人から話しかけられたときはもうちょっと」
 伊里野がカウンターする、
「何か用?」
 今さら後には引けない。
 絶対に怯んではならない。
 一歩たりとも譲《ゆず》ってはならない。
 そして晶穂は唐突に、にっこりと笑みを浮かべた。
 見事な笑みだった。
 初《うぶ》な一年生が見たら、それだけで恋に落ちてしまいそうな笑みだった。
「これから取材に出るんだけどさ、一緒に行かない?」
 伊里野の表情には、微塵《みじん》の変化も見られなかった。
 痩《や》せ我慢にも限度があった。伊里野の無表情にこれ以上|曝《さら》されたら、自分は目茶苦茶《めちゃくちゃ》に怒鳴り散らすかこの場から逃げ出すかしてしまうと思う。晶穂は、予《あらかじ》め用意していたセリフを一気に吐き出した。
「あたしうちの新聞の連載でおいしいお店紹介の記事書いてるの、ラーメン屋さんとかケーキ屋さんとかお弁当屋さんとか立ち食いソバとかジャンルは何でもアリの。実際にそのお店に行って出てきたもの食べてみておいしいと思ったらそれ記事に書いて紹介するわけ。これからその取材に行くから伊里野《いりや》も一緒にどうかなと思って」
 弾切れ、
「だって伊里野って取材するとか記事書くとかまだ一度もやったことないでしょ? あたしも最初は緊張《きんちょう》したけどこんなの要は慣れだしさ、あたしと一緒なら平気でしょ? 伊里野だって新聞部員なんだし早く一人前になってもらわないと因るし」
 最後のセリフはまるで部長の言い草だと自分でも思ったが、伊里野の無表情が恐くて晶穂《あきほ》はひたすら喋《しゃべ》り続けた。再び言葉は尽きて、あとは野となれ山となれだと腹を決め、晶穂は自分の下駄《げた》箱のフタを開けた。上履《うわば》きをスニーカーに履き替えながら、冷たく汗ばむ背中で伊里野の返答を待ちうけた。
 言うだけは言ったのだ。
 下駄箱のフタを閉め、つま先で床を叩《たた》いてスニーカーに踵《かかと》を蹴《け》り込み、鞄《かばん》を軽やかに拾い上げて伊里野に背を向ける。
「一緒に来るの? 来ないの?」
 返答は、ついになかった。
 不戦勝。部分的勝利。
 そんな言葉が晶穂の脳裏に浮かんだ。
 こうなるような気はしていた。
 晶穂は背後を振り返らずに昇降口を出た。
 ここまで来れば大丈夫、そう思えるようになるまでわき目も振らずに足早に歩いて、力なく立ち止まって、一度だけ震《ふる》える息を吐いて空を仰いだ。輸送機が飛んでいた。緊張で血の気の引いた顔を炙《あぶ》る日差しが心地よかった。
 見れば、広いだけが取り柄のグランドには祭の残骸《ざんがい》が今もゴロゴロしている。
 学園祭で使用された看板やハリボテの群れである。
 こうしたガラクタは、二日目十八時四十五分のファイアーストームですべて焼き尽くされて美しい思い出となる──というのはあくまでも公式パンフレット用のタテマエで、実際には全ガラクタの三分の一も燃やせればいい方で、残りの三分の二は学校じゅうの至る所にこうしていつまでも屍《しかばね》を晒《さら》し続けることになる。思えば当然の話で、学園祭で使用される看板やらハリボテやらその他もろもろの総量といったら膨大《ぼうだい》なものだし、それらすべてを一箇所に集めるだけでも大変な手間だし、そこに本当に火を点《つ》けたりしたら炎が大きくなりすぎて危ない。どうしてもすべてを一度に灰にしたいのなら校舎に火でも放つ以外にないし、でなければ、数十人の人手と2tトラックを動員して数日がかりで片づけるより他《ほか》にない。
 祭も過ぎ去れば、そこには日常があるばかりだった。
 やる気のないランニングや投げやりなノックの邪魔《じゃま》にならないように、大小さまざま色とりどりのガラクタはグランドの隅の方に押し込められてはいるが、でたらめに積み上げられでいる分だけより一層無残な雰囲気が漂っている。逃げ水のはるか彼方《かなた》では、見るからに暑苦しい作業服と防塵《ぼうじん》マスクに身を固めた旭日《きょくじつ》会員たちがファイアーストームの残骸《ざんがい》を相手に今日も戦いを挑んでいる。ときおり思い出したように「根性ぉーっ!!」と気合いを入れる奴《やつ》もいるのだが、どこかヤケクソなその叫びは瞬《またた》く間に空に飲まれた。
 グランドのほとりに立ち尽くして、晶穂《あきほ》はひとり、その光景を遠く眺めていた。
 輸送機の音が遠ざかる。
 つぶやく。
「──不戦勝なのよ」
 肩の力はため息に溶け、晶穂は踵《きびす》を返してその場を離れる。正門を出てすぐのバス停には大声でじゃれ合いながらバス待ちをしている一年坊主どもがいて、その騒々《そうぞう》しさに何となく距離を取って、頭の中の時刻表と左手首の腕時計を突き合わせる。
 小さく背伸びをする。
 始まったばかりの西日に目を細めた。
 背中に回した右手で汗で背筋に貼《は》りついたブラウスをつまむ。
 今年の夏は一向に終わりが見えない。学園祭だって終わったのに、もう十月の頭だというのに、連日連夜の天気予報は「観測史上最高」の大安売りだ。日中の熱気はひと頃《ころ》の鋭《するど》さを失っていくのと引き換えに、そのぶ厚さを増していくような気さえする。
 それもこれも部長のせいだと思う。
 ふと半ば真剣に思う。水前寺《すいぜんじ》テーマは季節と共に移ろいゆく、などというのは実は真っ赤なウソで、本当は季節の方が水前寺テーマに支配されているのではないか。常人のそれを倍する密度で日々を生きるあの男なら、あの男がかくあれかしと望むなら、時の歩みを遅くすることすら叶《かな》うのではないか。この夏は忘れもしない、六月二十四日にあの男が始めた夏。長い長い夏休みが、山のような宿題が昼なお暗い裏山がついに飲み尽くせなかった、嬉《うれ》し恥ずかしファイアーストームが焼き尽くせなかった夏だ。
 UFOの夏だ。
 セミが鳴いた。
「電話してきた」
 その一撃《いちげき》で晶穂は石になる。右の頬《ほお》に差す西日の熱さも首筋を伝う汗の冷たさも彼方に遠のいて、無表情な気配とその視線だけを背中に感じた。胃の腑《ふ》を締《し》めつけられるような緊張《きんちょう》が瞬く間に戻ってきた。
 意地だけで背後を振り返る。
 伊里野《いりや》はそこにいて、上目遣いに晶穂《あきほ》をじっと見つめ返している。
 晶穂は動揺を押し隠す。頬《ほお》に浮かぶは強がりの笑み。
「今日行くのはケーキ屋さん。バスで十分くらいのところ。料金は割り勘」
 それまでは何ひとつ意思表示をすることのなかった伊里野が、こくりと肯《うなず》いた。
 ただならぬ空気を察したのか、バス待ちの一年坊主どもが先ほどから横目でふたりの様子をうかがっている。通りの彼方《かなた》にある交差点からバスが姿を現してゆっくりとこちらに向かってくる。
 敗者復活戦が始まる。
 今さら後には引けず、絶対に怯《ひる》んではならず、一歩たりとも譲《ゆず》ってはならない。

        ◎

 知らぬが仏というやつで、そのとき浅羽《あさば》直之《なおゆき》はクラスの男子生徒と共に水を抜いたプールの掃除をしていた。
 実のところ、これはまったくの貧乏クジだった。そりゃあプールの掃除だって誰《だれ》かがやらなければならないことではあるが、それが二年四組の男子でなければならない理由などなにもない。六限目が体育であったことが運の尽きだと言うしかなかった。炎天下でマラソンなどさせられてダレきっていたところに、体育教師の深沢《ふかさわ》は「キサマら最近たるんでおるからな」と言いがかりのような理由をこじつけ、哀れ二年四組男子はプールの掃除を命じられてしまったのである。深沢は全員にジュースをおごる約束をしてはいたが、西日に炙《あぶ》られながら放課後まで居残ってプール掃除をしたご褒美《ほうび》がジュース一本では割が合うはずもない。おかげで二年四組男子はやる気ゼロの集団と化しており、ホースで水をぶっかけ合っていたりデッキブラシでチャンバラをしていたりで、掃除は最初から少しもはかどってはいない。
「だいたいさあ、十月だからって水抜いちまうことないんだよ。現に毎日毎日こんなにくそ暑いんだからさ、十二月だろうが一月だろうが暑けりゃプール入ればいいんだ」
 プールサイドであぐらをかき、デッキブラシを肩にかけ、花村《はなむら》は学校の杓子定規《しゃくしじょうぎ》なお役所的体質を声高に非難する。その隣《となり》であぐらをかき、デッキブラシを肩にかけ、西久保《にしくぼ》はどうでもいいことのように同意する。
「まあな。くそ暑い中でマラソンさせられるよりゃマシだわな」
「それにさあ、こういうプール掃除とかやらされんのは決まって男子なんだよな。相手が女子だったら深沢もプール掃除しろなんて言い出せなかったぜきっと。不公平だよな」
 花村が今度は男女同権の現実について言及する。
「まあな。女子にも力ありそうな奴《やつ》いっぱいいるしな」
 そのふたりの隣であぐらをかき、デッキブラシを肩にかけ、浅羽は水の抜かれたプールをぼんやりとながめている。
 こうして日の光の下で見るプールの光景は、どこまでも身も蓋《ふた》もなかった。
 どこもかしこも苔《こけ》じみているし、プールサイドの隅には雑草が顔をのぞかせているし、水を奪われてあらわになったプールの底は所々のペンキが剥《は》がれている。半袖《はんそで》短パンで気だるげにデッキブラシを動かしているクラスメイトの姿はまったくの日常であり、幻想が入り込む余地はどこにもなかった。
 名札のついていなかったスクール水着。
 くそ真面目《まじめ》にかぶっていた水泳帽。
 夏休み最後の夜、自分はここで伊里野《いりや》と出会ったのだ。
 そのはずだった。
 しかし、伊里野のいたあのプールと自分の目の前にあるこのプールとが、同じ場所であるとはどうしても思えない。あれは、日常にまみれたこのプールとは似て非なるどこか、夏休み最後の夜にだけその道を通じる異次元のような場所であったような気がする。そして、同じ場所であるとは思えないからこそ、そこでクラスメイトたちが水をかけ合っていてもチャンバラをしていても、もう十月なんだな、としか思わなかった。くそ暑いプールサイドにあぐらをかいて、デッキブラシを肩にかけて、浅羽《あさば》はセミの鳴く空を見上げている。触れればはっきりとした手触りがありそうな、固そうな雲の山が西日に染まっている。
 左腕の時計は、今も十八時四十七分三十二秒で止まっている。
「そうだ、水泳部の連中にやらせればいいんだよ。あいつら授業の他《ほか》に部活もあるしさ、一番プール使ってんだから」
 花村《はなむら》が相変わらず文句を並べている。その隣《となり》で西久保《にしくぼ》が突然、
「あー!」
「な? それがスジってもんだろ?」
「やっベー! おい、いま何時だ!?」
 いきなりあわて始めた西久保に花村は眉《まゆ》をひそめ、
「なんだよ、どうしたんだよ」
「ビデオのタイマー録画忘れてきた! NHKの『択捉動乱』って今日だよな!?」
「知らねーよそんな番組」
「確か今日なんだよ!」
 西久保は時間時間とわめきながらおろおろと周囲を見回して、浅羽の腕時計に目をつけた。浅羽は思わず左腕を背中に回して隠す。西久保はすがるようにその腕をつかみ、
「おいなんだよ見せてくれよ!」
 浅羽はあわてて弁解する、
「こ、壊《こわ》れてんだよこの時計!」
 とにかく時計を見せてやって確かに壊《こわ》れていることを示せば西久保《にしくぼ》も納得してあきらめるのだろうが、浅羽《あさば》はひと目たりともこの時計を他人の視線に晒《さら》したくなかった。そんなことをしたら、あの日のあの夕方の、大砲山《たいほうやま》の山頂で起こったあの出来事をのぞき見されてしまうような気がしていた。
「四時すぎくらいじゃねーの? さっき鐘《かね》鳴ったし」
 花村《はなむら》のお気楽なそのひと言で、浅羽ともみあっていた西久保はがっくりと肩を落とした。浅羽はなんだか気の毒になって、
「その番組って何時から?」
 西久保がぼそりと答える。
「四時……」
「──じゃあさ、家に電話したら」
「そうだよ。チャンカーに頼んでビデオ回してもらえ」
「うちのおふくろビデオの操作なんてできねぇよ。あーもーちっくしょー失敗したなー!」
 西久保はがりがりと頭をかきむしる。その隣《となり》で花村はのんびりと周囲を見回し、プールサイドの継ぎ目から何かをつまみ上げて、
「ほれ。これやるから元気出せ」
 髪の毛だった。
 長さが40センチ以上ある。
 つまり、明らかに女子生徒の髪の毛である。
 西久保は片手でその髪の毛をつまみ、目の前にもってきてしげしげと眺め、深い深いため息をついた。それを隣で見ていた浅羽は微《かす》かに胸がざわつくのを感じた。まずあり得ないことである。可能性は万にひとつもない。だが、しかし、もしかしたら、ひょっとしたら──
「あ、こんなのもあるぞ」
 花村はまた別の毛を指先でつまみ上げ、ほれ、という感じで差し出した。西久保と浅羽はつり込まれるようにその指先を注視した。
 陰毛であった。
「うわあっ!」
「きっ、きったねーなバカ野郎!」
 花村はへらへら笑っている。逃げ腰のふたりに陰毛突きつけ、ずいと身を乗り出して、
「なんだよ。すっげーかわいい子のやつかもしんねーぞ?」
 西久保も浅羽もぶんぶんと首を振る。縮れ具合も凶々《まがまが》しいその陰毛は長さが10センチ近くもあって、まさに「剛毛」と呼ぶにふさわしい貫禄《かんろく》をその先端にまで漲《みなぎ》らせていた。こんなものが女の子に生えるはずはない、西久保も浅羽も固く固く固くそう思った。知らぬが仏というやつである。
「うらー!! 食らえー!!」
「うわー!! やめろばかー!!」
「早く捨てろそんなもん!! こっち来んなー!!」
「ほらほら陰毛だ陰毛!! いんも────っ!!」

        ◎

 件《くだん》の連載記事は名を『行き当たりばったり』といって、晶穂《あきほ》が新聞部に入部して最初に書いた記事であり、晶穂の新聞部改革の第一歩でもあった。内容は至ってシンプルで、園原《そのはら》市内のあちこちの様々な飲食店を取材して、何がうまいとかこれが安いとか店が洒落《しゃれ》ているとかオヤジが面白《おもしろ》いとか、そういったことを紹介するというものだ。
 学校新聞のこの種の記事は大抵が女子生徒の手になるもので、取材する店もいわゆる「かわいくておしゃれなお店」ばかりになりがちだが、『行き当たりばったり』が紹介する店はラーメン屋ありケーキ屋あり弁当屋あり立ち食いソバありとまったくのノンジャンルである。これは晶穂の企画立案時からの揺るぎなきコンセプトであり、リーマンぞろぞろの立ち食いソバであろうが自衛官うじゃうじゃの定食屋であろうがまったくお構いなしに体当たり取材を敢行した成果だった。
 あえて意地の悪い見方をすれば、こうした取材方針は水前寺《すいぜんじ》と晶穂の対立構造の産物であるとも言える。すなわち、常日頃《つねひごろ》から水前寺の「超常現象マニアしか読まないような記事」を叩《たた》いている以上、晶穂としても「女子生徒しか読まないような記事」は書けないというわけだ。が、世の中ままならないもので、それでは本当に晶穂が誰《だれ》にでも喜ばれる記事を書けているのかというと若干あやしい部分もあって、なにしろ晶穂は水前寺に負けず劣らずの大メシ食らいであるし、店を取材するときにも「質」を軽視するわけではないが、どちらかといえば「量」の方をより評価しているようなフシがある。そんなわけで、連載記事『行き当たりばったり』の読者層は女子生徒よりも男子生徒が多く、とりわけ運動部の腹ぺこ部員どもの間での評判が高いのだった。

 西久保《にしくぼ》と浅羽《あさば》が恐るべき陰毛に追い回されているちょうどその頃《ころ》、晶穂と伊里野《いりや》は「招福寺《しょうふくじ》入口」でバスを降りていた。晶穏が先を行く。その後ろを伊里野が叱《しか》られた子供のような距離をおいてくっついていく。巨大な並木が目陰を落とす、右曲がりの古い坂道を下っていく。
『ストロベリー・フィールズ』は坂道を下りきった先の、国道との交差点の角にある。晶穂の言った「ケーキ屋さん」という表現も間違いではないが、店内にはケーキの他《ほか》にもフランスパンが山と刺さったバスケットや鏡餅《かがみもち》のような大きさの丸パンがゴロゴロしているし、奥にはカウンター席が十席にボックス席が五つのスペースがあって、全体としてはケーキ屋+パン屋+喫茶店という感じだ。
 この店のいちごパフェがおいしい、と言っていたのは島村《しまむら》清美《きよみ》だった。
 晶穂《あきほ》は取材メモをぱたんと閉じる。
「ここ」
 それ以上何を言ってもどうせ答えなど返ってこないことはわかっていた。小さく肩をすくめて店に入る。重いガラス戸に西日が跳ね返って伊里野《いりや》の無表情が映り込んだ。先に立って店内を歩き、ボックス常に陣取って、取材メモとボールペンをテーブルに並べて置く。すぐそばで立ち尽くしている伊里野を横目で見上げ、
「座れば?」
 伊里野が向かいの席に腰を下ろす。相も変わらぬ無表情で、まるで不測の事態に備えて身構えているかのように細い肩にきつく力がこもっている。
 晶穂は細くため息をついた。
 伊里野の無表情から視線を逃がす。テーブルの上のメニューを手にとって、手書きの文字に苛立《いらだ》たしげな目を走らせる。いちごパフェ──¥700。
 高。
 懸命《けんめい》に平静を装ってはいたが、頭の中はぐちゃぐちゃに混乱していた。ぐちゃぐちゃに混乱したおかげで奥底に深く沈んでいたものがほじくり返されて意識の表層に出てきた。自分でもはっきりと意識していなかった自分の本音。
 ──これから取材に出るんだけどさ、一緒に行かない?
 まさか伊里野が本当についてくるとは思っていなかった。
 ──伊里野だって新聞部員なんだし早く一人前になってもらわないと困るし。
 伊里野がそんなものになれっこないし、なってほしいとも思っていなかった。
 最初から勝ち逃げするつもりだったのだ。できるはずのない要求を突きつけて意気地のなさを冷たく嘲笑《あざわら》って、新聞部にとってもまったくの役立たずであるという事実を部長にねじ込めばうまくいけばもしかしたら、
 なのに、
「ご注文は?」
 声が出るほど驚い《おどろ》た。いつの間にかウエイトレスがそこにいて、営業スマイルもにこやかに晶穂を見下ろしている。
「あ、えっと、オレンジペコといちごパフェ」
 ウエイトレスの視線が伊里野に移った、その瞬間《しゅんかん》だった。まったく見ていて気の毒になるほどの緊張《きんちょう》が伊里野の両肩に渦を巻き、まるで、この瞬間に備えて考えに考え抜いていたかのような口調で、
「晶穂とおなじのっ」
 晶穂《あきほ》は思わず腰が引け、異様な雰囲気に気圧《けお》されたウエイトレスは逃げるようにその場を立ち去った。伊里野《いりや》はソファの中でぎゅっと身を固くして晶穂をじっと見つめてくる。
 どうだ──と言わんばかりの、挑戦的な目つきに見えた。
 それは、晶穂が初めて目にする、伊里野の表情らしい表情だった。
「──な、なによ、」
 伊里野がうつむき、表情らしい表情はたちまちかき消えた。
 そのことが、なぜが唐突に、無性に癪《しゃく》に障った。
 言いたいことがあるなら言えばいいのだ。
 あんたのポーカーフェイスはただの甘えであり、相手に対する卑劣な脅しであり、身勝手な居直りであり、要するにあんたはガキなのであって、そんなものがいつまでも誰《だれ》にでも通用すると思ったら大間違いだ──そう怒鳴り散らしてやりたかった。
 震《ふる》える息を、かろうじて言葉にして吐き出した。
「──トイレ」
 乱暴に席を立ってぐいぐいと歩き、ノックもせずに扉を開けて狭苦しいトイレに立てこもった。後ろ手にロックした扉に背中をあずけ、黒い徴《かび》が点々と散る天井めがけて大きく息をついて、腹の中に充満した怒りを少しでも吐き出そうとした。
 自嘲《じちょう》する。
 ──トイレに逃げるなんて、まるで浅羽《あさば》だ。
 カラ元気をかき集める。
 なにしろ、一緒に取材に行こうと持ちかけたのは自分の方なのだ。こうなってしまった以上は仕方がない、何とかして乗り切る他《ほか》にない。
 トイレを出た。
 ぐいぐいと歩き、ソファにどすんと腰を下ろした。
 深呼吸。
「あのね、」
 伊里野の視線をどうにか受け止め、
「この取材って大抵はアポなしでやるの。最初のころはそうじゃなくて、ちゃんと電話して土日の早い時間とかに行ってたんだけど。それなら空いてるし店長さんとかお店の中とか写真撮らせてもらえるし」
 うまく笑えたと思う、
「でもさ、やっぱり大切なのって『平日の放課後なんかに普通にお客として行ったときにどうなのか』ってことでしょ? 放課後くらいにはめちゃくちゃ混むのかもしれないし、取材だって言うとお店の方も多少は構えちゃうし。自分で言うのも何だけどしょせんは学校新聞じゃない、そんなに意識しなくてもって思うんだけどでもあるのよたまに。気持ち悪いくらい愛想がよかったりモンブランに粟《くり》が五つも乗ってたり」
 そこでウエイトレスがやって来た。注文の品が並ぶと、大して広くもないテーブルは一杯になってしまった。
「さて」
 ティーサーバーのハンドルを押し下げる。と、それを見た伊里野《いりや》が真似《まね》をした。カップに紅茶を注ぐと伊里野もそうした。スプーンを手にとってふと見れば、伊里野は同じようにスプーンを持ったまま、晶穂《あきほ》が次はどうするのかとじっと見つめている。
「──た、食べれば?」
 それでも伊里野は動かない。
 仕方がない。
 晶穂としても、じっと見守られていてはどうにも食べにくかったが、半分に切ったいちごとクリームをひと匙《さじ》すくっで口に入れて見せた。
 ──うん。
 悪くないと思った。いちごは新鮮《しんせん》な感じがするし、チョコレートソースと生クリームの口どけも滑らかだ。ときおりスプーンを口に運びつつ、思ったことを取材メモに書きつけていく。紅茶のカップに手を伸ばそうとしたとき、何かの機械が決まったペースで動き続けているようなその音に気づいた。
 視線を上げた。
 伊里野が、まさに機械のようにパフェを食っていた。
 思わず口を半開きにして見守った。伊里野は山盛りのパフェをざくざくと切り崩し、呆《あき》れるほどのペースで食って食って食い続けている。「うまい」でも「まずい」でもないまったくの無表情で、スプーンの先が容器に当たる「かち」「かち」「かち」という音は気味が悪いくらいに規則的だった。お上品な細いスプーンが使いにくいのか、口のまわりもスプーンを操る手もべたべたになっていたが、そんなことはまるで気にしていないように見える。いちごも生クリームもすでに無く、伊里野のスプーンはコーンフレークの層を瞬《またた》く間に突破して、いちごの果肉入りアイスクリームにぐりぐりと突き刺さっていく。
 今さら後には引けず、
 絶対に怯《ひる》んではならず、
 一歩たりとも譲《ゆず》ってはならず、
 わけのわからない対抗心に翻弄《ほんろう》されて、晶穂もまたパフェを平らげにかかった。焦りに駆られてめちゃくちゃにスプーンを動かした。が、スタートの遅れは如何《いかん》ともし難く、晶穂の追い上げに気づいた伊里野はさらにペースを上げ、アイスクリームが残り5センチを切ったところで猛然とラストスパートをかけた。容器をつかみ上げ、まるで水でも飲むように、あるいは茶漬けをかき込むように、残り全部を一気に口の中に流し込む。
 こっ。
 周囲の客までが呆気《あっけ》に取られて見守る中、伊里野《いりや》は空っぽになったパフェの容器をテーブルに置いた。まっすぐに晶穂《あきほ》を見つめる。顔じゅうべたべたのクリームだらけで、口の両端から鼻の上あたりにかけて、容器のふちと同じ大きさのチョコレート色の輪っかがついていた。
 なんだか、負けた気がすごくした。
 さっきトイレに捨ててきたはずのどす黒い感情が、再びじわじわと理性を侵食し始める。
 だめだ。落ち着け。
 誘ったのはあたしなんだから。これは取材なんだから。
 晶穂は口元を紙ナプキンで拭《ぬぐ》い、引き攣《つ》れた、しかし一応は「笑み」のようにも見える表情を浮かべた。わずかに震《ふる》える声で尋ねる。
「──あ、味の方はどう?」
 伊里野が答える、
「あまい」

        ◎

 ラグビーの発祥はその昔、サッカーの選手がボールを抱えて敵ゴールに飛び込んだことに由来するという。
 発端は、プールサイドを逃げ回っていた浅羽《あさば》がホースに足を引っかけたことだった。ホースが外れた蛇口から水が噴《ふ》き出して、すぐ近くでチャンバラをやっていた連中がパンツまでびしょ濡《ぬ》れになった。誰《だれ》だこんなふざけたマネしやがったのは、チャンバラ軍団が怒りの視線を上げた瞬間《しゅんかん》、そこに飛び込んできた花村《はなむら》が、
「いんも─────────っ!!」
 それから、いくつものドミノが短時間のうちに連続して倒れた。その経緯《けいい》を逐一正確に説明するのは極めて難しい。とにかく、騒《さわ》ぎはその場にいた全員を次々と飲み込んで雪ダルマ式に拡大し、ついには東西に分かれた二年四組男子生徒二十六名が額《ひたい》をぶつけてにらみ合う一大抗争へと発展した。最低限の仁義としてのルールがあっという間に自然発生し、勝った方が負けた方のジュースを総取りするという協定が暗黙《あんもく》のうちに交わされた。
「死ねやあ────────っ!!」
 振り下ろされたデッキブラシの一撃《いちげき》を、浅羽は左腕にくくりつけたビート板二枚重ねのシールドでばっこし受け止めた。滑りやすいプールの床を利用して敵の懐《ふところ》に飛び込み、敵の足首に踵《かかと》を蹴《け》り込んで転倒させる。浅羽のすぐ後に続いていた味方が転倒した敵に奇声を上げて襲《おそ》いかかり、浅羽が立ち上がる時間を稼いでくれた。浅羽は敵陣めがけて走る、左腕はシールドを低く構え、右腕は水球のボールをしっかりと抱えていた。このボールを敵に奪われてはならない。ちらりとプールサイドに横目を使う。「9-8」と数字の並ぶスコアボードの両脇《りょうわき》で、応急処置練習用《CPR》の人形がシナを作ったポーズで立ち尽くしている。次の鐘《かね》が鳴るまでもういくらも時間がない、これが最後のチャンスかもしれない。そう思った瞬間《しゅんかん》、シールドに突然の衝撃《しょうげき》を感じ、その一撃に気を取られていたわずかな隙《すき》を見事に突かれた。デッキブラシで足元をすくわれて視界が縦に回転した。
「浅羽《あさば》っ!!」
 西久保《にしくほ》の声。逆さまになった視界の中で西久保はジャンプ一番、浅羽がでたらめに放ったパスを見事に受け止めた。味方がすぐさま西久保の周囲を囲める。ビート板とデッキブラシの密集陣形を組み、西久保の持っているボールを敵の目から隠してじりじりと前進する。
「上等だコラあ──────っ!!」
 敵が雲霞《うんか》のように襲いかかる。
「かかってこいやあ────っ!!」
 花村《はなむら》が雄叫《おたけ》びを上げ、群がる敵の真っ只中《だだなか》に飛び込んで戦力の集中を阻もうとする。花村が振り回しているのは双節根《そうせつこん》である。トイレ掃除用の吸盤《きゅうばん》二本をヒモで結びつけた実にダーティな得物である。うわあーきたねえーやめろばかーと敵が逃げ惑う。西久保の密集陣形はすでに敵陣深く斬り込みつつあった。飛び込み台の上に置かれているポリバケツにボールを叩《たた》き込めばゴールだ。しかし密集陣形は機動性に乏しい。敵は戦法を得物による近接|戦闘《せんとう》からバケツの水による遠隔|攻撃《こうげき》へと切り替えており、とりわけプールサイドからのホースによる集中放水は熾烈《しれつ》を極めていた。西久保たちはビート板のシールドで懸命《けんめい》に対抗していたが、陣形が突き崩されるのはもはや時間の問題である。
 あれを潰《つぶ》さなくてはならない。
 浅羽はプールサイドに身を乗り出して、そのへんに転がっているバケツをつかんだ。
 縦25メートルのプールは真ん中が一番深くなっており、そこには脛《すね》のあたりまでの水が溜まっている。走りながらバケツを引きずって水を汲んだ。敵は密集陣形に気を取られており、浅羽はさしたる妨害を受けることなく敵陣の最深部まで一気に接近した。近くにいた敵が浅羽の意図に気づいて大声で警告《けいこく》を発する。
 もう遅い。
 浅羽は渾身《こんしん》の力を込めてバケツを振るった。プールサイドからホースで水を浴びせていた敵が、あごに水の塊をぶち当てられてひっくり返った。
「突っ込め西久保っ!!」
 西久保が獰猛《どうもう》な笑みを浮かべ、自ら陣形を崩して嵐のようにゴールへと迫った。その半数以上が敵との交戦に巻き込まれ、そのまた半数がゴール前にばら撒《ま》かれていたビート板ぬるぬる地雷にやられて転倒したが、西久保はその屍《しかばね》を乗り越えて突撃し、跳躍《ちょうやく》し、ついに
「くぉらあ────────っ!! キサマら何をやっとるかあ────────っ!!」
 体育教師の深沢《ふかさわ》だった。箱買いしてきた缶コーヒーをその場に投げ出し、拳《こぶし》を振り回しながら駆け寄ってくる。
 うるせぇハゲ、もうジュースなんかどうでもいいから邪魔《じゃま》すんなや──そんな空気の中、誰《だれ》もが仕方なしに掃除に戻った。どいつもこいつも声は嗄《か》れ果て、全身ずぶ濡《ぬ》れの生傷だらけだったが、ど田舎《いなか》の遊びなんて何をやるにしでも大体こんなものである。
「だからキサマらたるんどるんだ。いいか、いつまでも学園祭のオマツリ気分でいると後で後悔することになるぞ。さっさと気持ちを切り替えてだなあ、人が遊んでおるときに勉強にスポーツに精を出すことが将来のだなあ、」
 缶コーヒーの箱にどっかと腰を下ろして腕を組み、深沢はいつまでもいつまでら説教をたれている。浅羽《あさば》がデッキブラシにもたれかかって肘《ひじ》にできた擦《す》り傷を指先でつついていると
「あ──そうだ、」
 隣《となり》で花村《はなむら》がふと何かを思い出したような顔をして、
「なあ浅羽、」
「なに」
「ずっと聞くの忘れてたんだけど、お前さ、学園祭の二日目に校内放送で職員室に呼び出されてなかった?」
 デッキブラシが滑り、浅羽はひっくり返って尻もちをついた。
 西久保《にしくぼ》が「なんだそれ」と口を挟む。
「いや、おれもちゃんと聞いてなかったんだけど、放送で浅羽の名前が呼ばれたような呼ばれなかったような」
 西久保は「いつ?」と眉《まゆ》をひそめる。
「あー、ファイアーストームのちょっと前くらい。屋台の生ゴミ捨てに行ってたときだから。お前気がつかなかった?」
 西久保は「気がつかなかった」と首を振る。
「それにあの後、ファイアーストームんときにも浅羽いなかったろ」
 西久保は「いなかったっけ?」と首を傾《かし》げる。
「いなかったんだよ。須藤《すどう》が探してたし。なあ浅羽、あのときお前どこ行ってたんだよ。ヤニ食ってるとこ見つかって説教でもされてたのか?」
「あ、うん。だからその、ちょっと家庭の事情で」
 浅羽は一秒も考えない出まかせを並べた。
「親戚《しんせき》のばーちゃんが急病でさ。家から学校に電話が来て、あの後すぐ家に帰った」
 西久保も花村も、なんだつまらん、という顔をする。浅羽は密《ひそ》かに胸をなで下ろした。今の今まで考えてもみなかったが、ファイアーストーム直前のあの混沌《こんとん》の中では誰《だれ》も校内放送になど大した注意を払わなかった、ということなのかもしれない。
 ふと気になる、
「あの、」
 花村《はなむら》が振り返り、
「あ?」
「──晶穂《あきほ》がぼくを探してたの?」
「ああ」
「──なんで?」
「知るかそんなの。つーかおれも『浅羽《あさば》知らない?』って聞かれただけだし。お前、何か約束でもしてたんじゃねーの?」
 約束?
 頭をひねるが、何も思い当たるようなことはない。第一あのとき晶穂は酔っ払っていたし、自分は晶穂を部室に寝かせて──
 あ。
 その前だ。強引に連れ込まれたありあり喫茶で、晶穂はこんなことを言っていなかったか。
 ──彼女のいない哀れな青少年のためにひと肌ぬぐわ。ゆうべのおわびにファイアーストームに付き合ったげる。
 でも、と浅羽は思う。
 すでに記憶《きおく》はあいまいだが、晶穂のその申し出は半ば冗談のような口調であったような気がするし、確か自分はそれを断ったのだ。
 断ったような気がする。
 少なくとも「ぜひよろしく」などと言ったはずはないと思う。晶穂と口論になったような怯《おぼ》えもないから、その件については晶穂の方も了解していたということだろう。
 浅羽は自分で納得した。
 大丈夫。後ろ暗いところは何もない。晶穂が自分を探していたというのもきっと「さっきは酔っ払っちゃってごめんね」とか、そういうことを言うためだったのだ。大体、もし自分が晶穂との約束をすっぽかしていたのなら、たっぷりと油を絞られた挙げ句にラーメンの一杯も奢《おご》る約束をさせられているはずではないか。
 ぽつりと、我が身に言い聞かせるようにつぶやいた。
「──大丈夫、だよな」
 それでもなお、得体の知れない胸騒《むなきわ》ぎは消えなかった。
 何か、途轍《とてつ》もなく恐ろしいことが起こりそうな気がする。
 いやむしろ、それはすでに自分のあずかり知らぬどこかで始まっているような気さえする。
 浅羽はひとりプールの底から空を見上げる。ほとんど形を変えていない雲の山が、まるで不吉な地震《じしん》雲か何かのように見える。ひぐらしの声が雨音のように降りしきる。西日の角度が落ちて、プールの底は少しだけ肌寒い。

         ◎

 手のつけられない沈黙《ちんもく》を埋めるためだけに、でたらめに注文を追加した。
「げんこつシュークリームと水出しコーヒー。あとスパゲッティ・マヨネーズしょうゆ」
「晶穂《あきほ》と同じの」
 理性が軋《きし》む。
 やることなすことにいちいち勝負を挑まれているような気がする。
 そして、注文した三品は晶穂が思っていた以上に量があった。シュークリームは少なくとも晶穂の拳骨《げんこつ》よりは遥《はる》かに大きく、コーヒーは取っ手のない変わった形のカップに入っており、スパゲッティは二人前がお盆のような大皿に乗っている。
 そして、伊里野《いりや》は再びロボットのように食い始めた。シュークリームを両手でむしむしとちぎって口に運ぶ。晶穂も負けじとシュークリームに手をつける。両者の皿はあっという間に空になり、
「ちょ、ちょっと! 取り皿に取って食べなさいよ!」
 伊里野が上目遣いに晶穂をにらむ。その口からは、大皿から直接取ってねじ込んだ大量のスバゲッティが滝のように垂れ下がっている。そのスパゲッティが、ずず、ずず、と口の中にすすり込まれていく。ろくに噛《か》まずに丸呑《まるの》みしているとしか思えない。晶穂が怯《ひる》んだ隙《すき》に、伊里野は両手のフォークを大皿のスパゲッティに突っ込み、明らかに半分以上をひと息に持ち上げて自分の取り皿の上に確保してしまった。「ずるい」などと言う間もあればこそ、伊里野の取り皿の上の山は見る見るうちに低くなっていく。晶穂はあわてて大皿に残っていたすべてを取り皿にかき集めた。量では明らかに負けているのだ、こうなったら伊里野より早く食べ終わるしかない。もう取材も味もクソもなかった。フォークにスパゲッティを巻きつけて口の中に突っ込む、それだけをただひたすらに繰り返し、あとひと口を残すばかりとなったそのとき、
 かちゃん。
 伊里野が、空になった取り皿にフォークを置いた。
 晶穂を真っ直《す》ぐ見つめる。
 ──わたしの、勝ち。
 伊里野の目が、そう言っていた。少なくとも晶穂にはそう見えた。
 理性の血管が破れる音がした。
「──あのさ、」
 頭の中の混乱は頂点に達して、一番の奥底の、すべての根っこになっているものがようやく表に飛び出してきた。口がひとりでに動いた。自分でも止められない。
「伊里野《いりや》って学園祭来てなかったよね。どうして? カゼでも引いたの?」
 晶穂《あきほ》の言葉が初めて鉄壁《てっぺき》の無表情を突き破った。伊里野は、いきなりバケツの水を浴びせられたような顔をした。
「伊里野も来ればよかったのに、学園祭。もうすっっっっっっっっっっごく楽しかったのに」
 伊里野がうつむく。全身を握り拳《こぶし》のように固くする。自分の言葉が伊里野の最も深い傷をえぐっていることに、晶穂はもちろん気づいていない。
「あたし? あたしはね、新聞部の企画で号外を出すことになってて、その取材で浅羽《あさば》と一緒にあっちこっち飛び回ってた。号外ってわかる?、わかんないよね、とにかくさ、浅羽と一緒に焼きそばを食べたり浅羽と一緒に焼きいもを食べたり浅羽と一緒に映画を見たり浅羽と一緒にお化け屋敷《やしき》に入ったり浅羽と一緒にファイアースートームで踊」
「うそ」
 握り拳が口をきいた。
「さいごのは、うそ」
 晶穂は、震《ふる》える息を吐いた。
 ──どうせあんただろうと思ってたけどね、やっぱりあんたか。
 それだけで、十分だった。
 追及はすまいと思った。もし自分が逆の立場だったら、それ以上はどんな質問も許さないだろうから。浅羽とどこへ行って何をしていたのかと問い詰められたら、なんであんたにそんなことを言わなければならないのだと逆に食ってかかるだろうから。
 そして、晶穂は唐突に、にっこりと笑みを浮かべた。
 見事な笑みだった。
 浅羽が見たら、それだけで恐怖のあまり小便をもらすような笑みだった。
 軽やかに立ち上がり、テーブルの上に置かれていた伝票を手に取った。
「さ、取材取材。もう一件行ってみよー。あ、いーのいーの気にしないでここの分はあたしが馨《おご》るから。まだ平気でしょ? ぜーんぜん食べれるでしょ?」
 伊里野が顔を上げて晶穂をにらみつけ、ゆっくりと立ち上がって、こくりと肯《うなず》いた。
 踵《きびす》を返した。背後を振り返らずにレジへと向かう。支払いをすませ、荷物をまとめて店を出た。
 ストロベリー・フィールズから夕暮れの国道を西へ300メートルほど歩くと、「園原《そのはら》銀座《ぎんざ》商店街」という名前からして垢抜《あかぬ》けない看板が姿を現す。アーケイドの中には夕方の買い物客が数多く行き交い、天井からは時代遅れなアニメキャラのバルーンがいくつもぶら下がっている。そのさらに100メートルほど奥の右手、花屋と薬屋の間にその店はある。
 油じみた中華料理店、である。
 人の出入りが絶えないところを見ると、それなりに流行《はや》ってはいるらしい。店の前には「喧嘩上等」と書かれた白い軽トラが止まっており、その隣《となり》では見るからに族上がりと思《おぼ》しき従業員が、ひと抱えもあるようなピータンの甕《かめ》をホースの水で洗っている。
 木目も鮮やかな、実に大仰な感じのする看板にはこんな文字が並んでいた。
『鉄人屋《てつじんや》』
 ここまで、晶穂《あきほ》は背後を一度も振り返らずに歩いてきた。
 看板を見上げでつぶやく。
「ここ」
 扉を肩で押して店に入る。伊里野《いりや》がその後に続く。
「っしゃい────────────────────────────!!」
 従業員たちが一斉に、ほとんど喧嘩腰のような声を張り上げる。半分ほど埋まっている客席のあちこちに自衛官やアメリカ兵の姿が目につく。晶穂は店内を奥へと進み、四人がけの丸いテーブルに陣取った。伊里野がその向かいに腰を下ろす。
 二人がにらみ合う間もなく、従業員のひとりが注文を取りに来た。
「っしゃいませご注文はぁ」
 晶穂は、メニューなど見なかった。
 伊里野もまた、晶穂から視線をそらさなかった。
「鉄人定食ひとつ」
「晶穂と同じの」
 従業員の表情が凍りついた。
 晶億と伊里野をまじまじと見つめ、いきなり素の口調になって、
「──いや、あのねお客さん。一応説明しとくとさ、うちの鉄定は」
「鉄人定食ひとつ!」
「晶穂と同じの!」
 従業員は、晶穂と伊里野の間に漂うただならぬ気配《けはい》にようやく気づいた。ぎろぎろした喉仏《のどぼとけ》をごくりと鳴らす。頬《ほお》を汗が伝い落ちた。
 晶穂と伊里野の声は、店内にいた他《ほか》の客の大部分の耳にも届いていた。それまでのざわめきが潮《うしお》のように引いていき、全員の視線が晶穂と伊里野に集中する。やがて、失笑と嘲笑《ちょうしょう》の入り交じったざわめきが壁《かべ》から壁へと跳ね返る。
 従業員は「どうなっても知らねえぞ」という最後の一瞥《いちべつ》を残し、ヤケクソのように声を張り上げた。
「鉄定二丁ぉ入りましたぁ─────────────────っ!!」




         ◎

 激闘《げきとう》三十分の未に、中華料理屋『鉄人屋《てつじんや》』店長の如月《きさらぎ》十郎《じゅうろう》は低すぎる戸口に首をすくめてトイレを出た。
 扉を閉め、首の関節をごきりと鳴らす。猛獣《もうじゅう》のような唸《うな》りとともに背筋もりもりの背すじを伸ばすと、ただでさえ狭苦しい通路の天井に両手がついてしまう。巨体を屈《かが》めて念入りに手を洗えば、当たり前の大きさの洗面台が何かの冗談のように小さく見える。
 三十九歳。
 身長は一の位を四捨五入すれば2メートル。体重は五年ほど前までは140キロほどだったが、体重計を二台使わなければならないのが面倒《めんどう》で最近は量っていない。去年の園原《そのはら》銀座《ぎんざ》商店街納涼祭りで、酔っ払ったアメリカ兵十名を相手に大喧嘩《おおけんか》をやらかした際、近くにあった125ccのバイクを頭の上まで持ち上げで投げつけたことがある。
 黒の皮ジャンを着せてハーレーに乗せれば誰《だれ》がどう見ても立派なハードゲイであるが、生憎《あいにく》とそうした趣味《しゅみ》はなく、如月十郎は骨の髄《ずい》まで中華の男だった。あちこちの名門店からの誘いを蹴《け》り続けているとの噂《うわき》もあるが、そのあたりについての詳細は従業員たちも知らない。営業時間は十一時から二十四時まで、鉄人屋は「うまくて早くて安くて量が多い」を至上の目標とする、あくまでもどこまでも大衆的な中華料理店である。
 清潔なタオルで両手を拭《ぬぐ》い、スイングドアを肩で押して、如月十郎は怒鳴り声のオーダーが飛び交う厨房《ちゅうぼう》に戻った。近くにいた雑工《ざっこう》が顔を上げ、キャベツの詰まったダンボール箱をどかりと置いてにへらと笑った。
「どうでした親方、元気なおこさん生まれました?」
 如月十郎は雑工をぎらりとにらむ、
「んバカやろうぅ!!」
 最初の「ん」は鼻に抜ける発音である。
 突然のカミナリに、厨房にいた全員が飛び上がった。如月十郎は雑工の頭を一発はり飛ばして、
「でかい声できたねえ冗談飛ばすんじゃねえっ! 客に聞こえちまうだろうがっ!」
 親方の声の方が十倍でかいよ、とつっこめる者はこの厨房にはいない。雑工はほうほうの態《てい》で倉庫へと逃げ戻る。いくつもの鍋《なべ》が立てる騒音《そうおん》の中で如月十郎は腕を組み、そろそろ本格的に混む時間になるな、と考えた。壁《かべ》の時計を見上げる。
 そのとき、時計の針は五時三十六分を指していた。
 そのとき、客席から波紋を広げて厨房に伝わってきたざわめきは、まるで大|地震《じしん》のP波のように穏《おだ》やかで、かつ、混沌《こんとん》の予感を孕《はら》んだものだった。
 如月十郎は客席の変化に敏感に反応する。わずかに眉《まゆ》を上げ、客席へと続いているスイングドアの方向へと横目の視線を投げた直後に、その叫びを耳にした。
「欽定二丁ぉ入りましたぁ────────────────っ!!」
 つかの間、厨房《ちゅうぼう》の動きが止まった。
 その場にいる誰《だれ》もが互いに目を見合わせた。如月十郎が怒鳴る、
「──おたおたすんじゃねえ! 鉄定二丁だ!」
 全員が「おうっす!」と声をそろえて狼狽《ろうばい》気味に動き始める。如月十郎は突如として慌ただしさを増した厨房を足早に横切って、注文を取った新見《にいみ》をつかまえた。
「鉄定の客はどれだ」
「あ、親方。それがちょっとマズいんすよ、その──」
「なんだ」
 新見は息を詰め、すぐに観念したように息を吐き、
「七番テーブルす」
 如月十郎は巨体を屈《かが》め、スイングドアを細く開けて客席をのぞいた。
 しばらくそうしていた。
「マズいっしょあれ。──安井《やすい》医院《さん》に電話しといた方がいいすかね」
 新見が恐る恐るささやくと、
「要らねえよ」
 如月十郎がのっそりと振り返った。
 やってられんとでも言いたげに鼻で笑った。首の関節をごきりと鳴らす。
 つぶやいた。
「うちもナメられたもんだな」

『鉄人屋』の入り口から入って正面の壁《かべ》、つまり伊里野《いりや》がいま背を向けている壁であるが、そこには黒々と油煙にまみれた大きな貼《は》り紙が出ている。曰《いわ》く、

┌━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┐
┃  ── 無銭飲食列伝 ──             ┃
┃ 鉄人定食 …… ¥4、000            ┃
┃ (鉄人ラーメン+鉄人餃子+鉄人中華丼)      ┃
┃ 完食されたらお代は頂きません。時間は六十分。   ┃
┃ 途中で席を立った場合、周囲を見苦しく汚した場合は ┃
┃ 失格となります。                 ┃
└━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┘
 以下、「鉄人定食完食者御名前」と続き、鉄の胃袋の持ち主たちの氏名|年齢《ねんれい》職業がポラロイド写真つきで貼《は》り出されている。その数三十と八名。うち十八名は横文字の名前、つまり野獣《やじゅう》の如《ごと》きアメリカ兵である。残りの二十名もその半数以上が荒くれ自衛官で、カタギの完食者など数えるほどしかいない。実際、鉄人定食はこの界隈《かいわい》よりもむしろ園原《そのはら》基地においてその名を轟《とどろ》かせており、米軍関係者の間では〝TRIATHLON SET?と呼ばれて恐れられているし、鉄人定食に挑戦したさる大食い自慢の陸曹が息も絶え絶えに基地に戻ってきて、
「が、ガリバー旅行記……」
 とつぶやいてぶっ倒れ、そのまま医務室送りになったというのは自衛軍兵士の間では有名な話である。ちなみに、現時点での最年長完食者は「澤口健吾・自衛官」の三十七歳であり、最年少は「水前寺邦博・学生」の十五歳であった。
 待つこと十分。
 にらみ合う晶穂《あきほ》と伊里野《いりや》の前に、最初のメニューである鉄人ラーメンが運ばれてきた。縮れ麺《めん》、具はナルトとメンマと炒めたモヤシ、チャーシューは薄《うす》く数が多い。至極オーソドックスな醤油《しようゆ》ラーメンである。
 量、という一点を除けばの話だが。
 まず巨大なドンブリからして暑苦しい。バカバカしい容積いっばいに麺とスープが満ち満ちており、ほぼ同じ量の具がその上に山と盛られていて、横から見ると半球状のはずのドンブリが丸く見える。はっきり言ってこんなシロモノが人間の腹の中に収まり得るとは思えないのだが、この店の壁《かべ》を飾る完食者の名前の数々はまさかウソではあるまい。
「鉄人定食のご注文を承りました新見《にいみ》と申します。当卓の仕切りを勤めさせて頂きます」
 新見は小さく一札し、普段《ふだん》は厨房《ちゅうぼう》の神棚に置かれているデジタル式のストップウォッチを首にかけた。
「六十分以内に完食できなかった場合、途中で席を立った場合、卓を見苦しく汚した場合にはそこで終了とし金四千円を申し受けます。ようござんすね?」
 晶穂も伊里野も動かない。アメリカ兵のひとりが鋭《するど》く口笛を吹いてはやし立て、カウンター席のオヤジが「いいかぁ、半分くらいは食べるんだぞお」と野次《やじ》を飛ばす。
「水お茶その他の御用がありましたら私、新見にご遠慮《えんりょ》なく御申しつけ下さい。それでは卓から手を離して──」
 新見は汗ばんだ右手でストップウォッチを握りなおし、
 静かに戦いの始まりを告げた。
「どうぞ」
 晶穂が動いた。素早く割り箸《ばし》を手にとって巨大なドンブリに猛然と挑みかかった。山盛りのモヤシをざくざくと切り崩して口の中に突っ込んでいく。具の量があまりにも多すぎて、まずは具だけを食い続けて穴を開けないことには麺《めん》もスープも見えてこないのだ。まるで牛か馬にでもなった気分だろうが、晶穂《あきほ》は「美味《おい》しく食べる」などという悠長な考えは最初から捨てていた。ついに麺をほじくり出し、目を瞠《みは》るほどの量を一気にすすり込む。と、山盛りの具が地盤《じばん》沈下による土砂崩れを起こしてせっかく開けた穴が埋まってしまう。再び具だけをがつがつと食い進む。それが延々と繰り返される。しかし晶穂は怯《ひる》まない。女の子とは思えないそのあっぱれな食いっぷりに野次馬《やじうま》どもは手を叩《たた》いて大喜びだ。
 一方の伊里野《いりや》は落ち着いているし相も変わらぬ「ロボット食い」である。割り箸《ばし》を不器用に操ってモヤシをがばっと口に運び、ほっぺたをばんばんに膨《ふく》らませてもりもりと咀嚼《そしゃく》し、ごっくりと飲み下してはまた筈を動かす。具ばかりを食い続けることが苦にならないのか、その消費はあくまでも「上から順に」であり、晶穂のように麺を掘り出すということをまったくしない。具の山はたちまちのうちに姿を消し、箸先が今度は麺を探り当てる。急ぐ様子もなければ休む様子もない。口いっぱいに含んだ麺が次々とすすり込まれていくその様は、まるで走行中の車からセンターラインを見ているかのようだった。
 そして、下卑《げび》た歓声を上げていた野次馬どもが事の重大さに気づき始めたのは、新見《にいみ》の手の中にあるストップウォッチで十五分が経過した頃《ころ》のことである。
「お、おい、ぜんぶ食っちまうぜ……」
 誰《だれ》かがそうつぶやいた。
 まずは晶穂が、ドンブリに手をかけてスープを飲み干しにかかった。十秒ほど遅れて伊里野がそれに続く。ふたつの巨大なドンブリがゆっくりと傾いていき、野次馬どもの目と口が真ん丸になっていく。

 鉄人定食を注文する客には三つのタイプがある。完食する客と、途中で力尽きる客と、興味《きょうみ》本位の客だ。
 完食できるのならばそれが一番いい、と如月《きさらぎ》十郎《じゅうろう》は思う。また、途中でギブアップするにしても、それなりの覚悟をもって挑戦した結果ならばそれもまたよしである。ただ、冗談や酔狂で注文してきゃーきゃー大騒《おおさわ》ぎしながら適当に食い散らかして、最初から払うつもりだった四千円を当然のように置いて帰っていく客というのもまれにいて、如月十郎はそういう連中にはどうにも我慢がならないのだった。もちろん面と向かって文句など言わない。注文された以上は店としても真剣に作るし、そうして出した料理が半分も食べずに残されたりしたら悲しい。それは、鉄人定食でもそれ以外の料理でもまったく変わらなかった。
 ──一服つけるか。
 厨房《ちゅうぼう》全体の作業ににらみを効かせていた如月十郎は、腕組みを解《ほど》いて白衣のポケットを探った。出した料理が虫食いリンゴのようなザマで厨房に戻ってくるのは見るに忍びない。指先がショートホープのパッケージとチャッカマンに触れたそのとき、傍らのスイングドアが吹っ飛ぶように開いて、客席の様子をうかがっていた雑工《ざっこう》のひとりが転げまろびつ厨房に飛び込んできた。
「お、親方あっ!! すげえ、すげーっすよあいつら!!」
「んバカやろうぅ!!」
 飛び込んできた雑工《ざっこう》の顔面に如月《きさらぎ》十郎《じゅうろう》はカウンターを見舞った。
「てめえ、お客を捕まえて『あいつら』たぁどういう言い草だ!!」
 雑工はカエルのようにひっくり返り、鼻を押さえつつも懸命《けんめい》に、
「早く、早く餃子《ギョウザ》出してください! もうじきラーメン完食っす!」
「なにい?」
 そして、客席で津波のような歓声が巻き起こった。
 如月十郎の表情が静止する。
 厨房で鍋《なべ》や包丁を振るっていた八本の腕もまた、その歓声にふっつりと動きを止めた。八つの目が互いに視線を交わし、ほぼ同時に壁《かべ》の時計を見上げ、四つの口が一斉に「おいおいマジかよ……」という意味のつぶやきをもらした。鉄人ラーメンが厨房を出てからまだ十五分かそこらである。過去の記録に照らしても最速の部類に属するペースである。どうやら七番テーブルに二匹の怪物がいるらしい、四つの脳ミソはそう考えた。鍋釜《なべかま》を預かる彼ら四人は最初からずっと厨房での作業に忙殺されており、客席をのぞいてその正体を確かめるようなヒマはなかったのである。ねえ親方、七番卓の客って誰《だれ》なんすか、ひょっとしてプロレスラーすか、それとも関取すか、そうだオレ色紙買ってきます、後で店に飾る用のサインもらいましょうよ、
「うるぁ! ぼやぼやすんな! 誰か早くドンブリ下げて来い! 鶴巻《つるまき》ぃ!」
 如月十郎が一喝した。餃子の鍋を担当していた鶴巻が飛び上がり、
「は、はいっ! できてます、鉄人餃子二丁上がります!」
 如月十郎はスイングドアを肩で押し、再び客席をのぞく。
 七番テーブルのふたりの客。
 ふん、と鼻を鳴らす。
 鉄人定食の客など久しぶりだったので、どうやらこちらの目も多少|曇《くも》っていたらしい。
 なるほど。こうしてよく見れば、どちらもなかなかの面構えをしているではないか。
 背後で怒鳴り声が上がる、
「親方、餃子出します!」
 如月十郎は腕組みをして客席を見つめたまま、ぼそりつぶやいて答える。
「器が戻ってきてからだ」

 そう。
 次の料理を出すのは、前の器が厨房に戻ってきてから。
 鉄人定食における鉄の掟《おきて》である。
 このことは挑戦者にとっては決して些事《さじ》ではない。料理と器の上げ下げにかかる時間などせいぜい三十秒、長くても一分はかからないし、その間にはストップウォッチは止められる。しかし、たとえわずかであっても「途中で嫌でも休まなければならない」というのは、大食い早食いにおいては重大な悪|影響《えいきょう》を及ぼす。休んでいる間にも血糖値は上がり続けて満腹中枢が悲鳴を上げ始めるし、なによりも集中力が途切《とぎ》れるのが痛い。実際、過去に鉄人定食に挑んで破れていった者たちの多くは、食っている最中ではなく、この「休み時間」の終わり際にギブアップしている。ひとつの料理を食い終わって気力に穴が開き、なす術《すべ》もなく満腹感に苛《さいな》まれているところへ「さあ今度はこれだ」と次の山を目前に突きつけられて、一挙に気持ちが挫《くじ》けてしまうのだ。
 晶穂《あきほ》は椅子《いす》に深くその身をあずけ、テーブルの一点を見つめて静かに深呼吸を繰り返していた。テーブルの上にドンブリはすでになく、こぼれ落ちたもやしと跳ね飛んだスープが点々と散っているばかりである。
 野次馬《やじうま》どもは大騒《おおさわ》ぎだった。全員が席を立ち、七番テーブルの周囲には分厚い人垣ができていた。新たな客が次々に来店するが、彼らはまずその人垣に驚き《おどろ》、手近にいる誰《だれ》かに事情を説明されで目を剥《む》き、そのまま注文もしないで人垣に合流してしまう。賭《か》けが始まっており、壁《かべ》に掲げられた黒板の「本日のオススメ」が勝手に消されて殴りつけるようにオッズが書き込まれる。わずかに晶穂有利だ。レジのすぐ横にあるピンク電話にかじりついている野戦服姿のアメリカ兵がいる。ウソじゃない、SEALの連中でも食わねえようなファッキンどでかいラーメンをスクールガールが食っちまった、いいから今すぐ見に来い──受話器に向かってそんなことをわめき散らしている。
 晶穂は薄《うす》く目を閉じる。
 必死で平静を装ってはいたが、正直、キツかった。
 なにしろ、この店に来る前にストロベリー・フィールズでパフェと紅茶とシュークリームとコーヒーとスパゲッティをやっつけているのだ。
 ──大丈夫、まだいける。
 自らを鼓舞する。
 目的は、鉄人定食を完食することではない。
 目的は、伊里野《いりや》に勝つことだ。
 目的は、伊里野がゲロを吐いてもう勘弁してくれと頭を下げるそのときまで食うのを止《や》めないことだ。食い終わることではなく、食い続けることだった。
 気持ちの悪い汗が全身を濡《ぬ》らしている。テーブルの向かいで伊里野はどうせ、いつも通りのすずしい顔でこちらをじっとにらみつけていることだろう。
 弱みを見せてはならない。
 今さら後には引けず、絶対に怯《ひる》んではならず、一歩たりとも譲《ゆず》ってはならない。
 左手のどこかでスイングドアが大きく軋《きし》む音がして、周囲の野次馬《やじうま》どもが悲鳴にも似た驚《おどろ》きの声をもらした。ついに鉄人|餃子《ギョーザ》がその姿を現したらしい。
 晶席《あきほ》は目を開けない。
 テーブルの上に、いくつもの巨大な皿が置かれる音がする。
 それでも晶穂は目を開けない。
 新見《にいみ》の声が聞こえる。
「鉄人餃子、お待ちどうさまでした。それでは卓から手を離して──」
 周囲のざわめきが沈黙《ちんもく》に飲み込まれていく。
「どうぞっ」
 晶借は目を開けた。
 ゾンビのように身を起こし、ピラニアのように襲《おそ》いかかる。

 この手の大食いメニューにおいて、種目が餃子であればその数は五十や百が相場だが、鉄人餃子の数はわずか五つである。果たしてこのことは何を意味するか。
 でかすぎて箸《はし》で持てない。
 一口で食べ切れる大きさではあり得ない。二口でもまず絶対に無理だ。三口で食べ切れる人はきっと口の中にげんこつを入れる隠し芸を得意としているはずである。五十個百個の山盛りではない「皿の上の五つの餃子」というのは視覚的な錯覚《さっかく》を引き起こしやすいが、隣《となり》にタバコの箱なんかを置いてみると三日間くらいは笑える。
 こうなると「箸でつまんで小皿のタレにつけて」などという小癖《こしゃく》なやり方は到底通用しないわけであって、過去の挑戦者たちのほとんどは「醤油《しょうゆ》さしに入ったタレを餃子に直接ぶっかけてスプーンでオムレツのように食う」という戦法を取っている。
 ところが、晶穂と伊里野は第三の道を選択した。
 新見が戦いの再開を告げた瞬間、晶穂も伊里野《いりや》もすぐさま箸を捨てた。
 油ぎらぎらの巨大な餃子を両手でつかみ、大口を開けてかぶりついた。
 まさかの出来事に野次馬どもは悲鳴を上げて身をのけぞらせ、瞬《またた》く間に消えてなくなっていく巨大な餃子を呆然《ぼうぜん》と見つめた。晶穂が最初の餃子を平らげてふたつ目に手を伸ばす。三十秒とかかっていない。ラーメンのときとまったく同じ展開が、「晶穂が強烈なスタートダッシュを見せ、伊里野が着実に追い上げていく」という図式が再び繰り返されている。
 そして、晶穂がふたつ目の餃子にかぶりついた瞬間《しゅんかん》に思わぬ悲劇《ひげき》が起こった。餃子の分厚い皮に封じ込められていた肉汁がぶちゅ────っと噴《ふ》き出して、近くにいた徳田《とくだ》平八郎《へいはちろう》(五十四歳・自営業)の顔面を直撃《ちょくげき》したのである。
「あっぢ──! あぢあぢあぢぢぢぢぢ!!」
 徳田平八郎はそのあまりの熱さに床を転がり、自衛官とアメリカ兵は見事な危機管理能力を発揮した。徳田《とくだ》を救出すると同時に「待避《たいひ》っ! 待避ぃ──っ!」と叫び、体を張って一般市民を背後に押しやる。人垣の中にぼっかりと穴が開き、ニンニクの臭気漂う七番テーブルに驚異《きょうい》の眼差《まなざ》しが注がれる。
 ──あ、あいつら、熱くねえのか?
 熱いに決まっていた。
 右手の中に残っていた餃子《ギョーザ》の切れっぱしを口の中に押し込んで、晶穂《あきほ》は三つ目の餃子に左手を伸ばす。掌《てのひら》がぢんぢんする。口の中はもう半ば以上は感覚がない。それでも食い続ける、

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只看该作者 3楼 发表于: 2005-06-10
イリヤの空、UFOの夏 その4
秋山瑞人

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)伊里野《いりや》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)通学|鞄《かばん》

〔#〕:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)〔#改ページ〕
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     夏休みふたたび・前編
〔#改ページ〕





 伊里野《いりや》が、声を上げて笑った。
 ほんの一瞬《いっしゅん》のことだったが、浅羽《あさば》はそれを確かに聞いた。伊里野は無人駅のトイレから走り出て、夕暮れの日差しの中でくるくる回って、すぐに足をもつれさせて尻餅《しりもち》をついた。慌てて駆け寄った浅羽を見上げ、
「あたま軽い!」
 浅羽もつられて笑った。伊里野はさらに身を乗り出して、
「せなか暑い!」
 ああそうか、と浅羽は思う。夏服を貫いて背中に当たる西日の熱が、伊里野にとっては途方もなく新鮮《しんせん》なのだろう。
 伊里野の髪を切ったのだ。
 ばっさりやった。腰まであった髪を肩よりも短くした。
「気に入った?」
 伊里野を助け起こして、その耳元で風に揺れている白い髪を見つめてそう尋ねる。伊里野は何度も何度も肯《うなず》き、これからすごいことをするからよく見ていろという顔をして、いやいやをするように頭を左右にぶんぶん振ってくすぐったそうに笑う。今までとまったく違う髪の感触が面白《おもしろ》くて仕方がないのだ。浅羽は心底からの安堵《あんど》を覚える。真っ白になってしまったとはいえ、あれほど長かった髪を切ろうと持ちかけるのは、浅羽にしても大層勇気のいることだったから。
 ふと、伊里野に上着の裾《すそ》を引かれた。
「なに」
「お腹《なか》すいた」
 伊里野は遊園地の子供のようにはしゃいでいる。
 これでよかったのだ、と浅羽は思う。
 園原《そのはら》基地から解き放たれて二日、伊里野は、本当に明るくなった。
「──じゃあ、行こうか」
 首筋のガーゼが汗を吸ってむず痒《がゆ》い。右肩に食い込むダッフルバッグのストラップを左肩にかけ直して、浅羽は先に立って歩き出す。それとなく周囲に視線を走らせてみるが、観光地でもない田舎《いなか》の無人駅は見事なくらいに閑散としていた。日に焼けたベンチがひとつきりのバス停、電話ボックスから臍《へそ》の緒のように伸びる電線、無線タクシーの看板と半ばゴミ捨て場と化した駐輪《ちゅうりん》場。ジュースの自販機の前を通り過ぎたとき、浅羽《あさば》の左手が無意識のうちに釣り銭の取り出し口を探った。それを後ろから見ていた伊里野《いりや》が嬉《うれ》しそうに真似《まね》をする。
 名もない道を行く。
 自分は正しいことをしている、と浅羽は思う。

 大した理由もなしに、南へ行こうと決めた。
 夜明け前にバイクを乗り捨て、錆《さび》色に染まった砂利を踏みしめながら線路を歩き、名も知らぬ駅のホームによじ登って始発を待った。移動に金を使うことにはためらいもあったが、できるだけ早いうちにできるだけ遠くまで逃げておきたかった。まずは金よりも距離──その判断は間違っていなかったと浅羽は今でも思ってる。
 電車やバスを乗り継いで、ただひたすら南を目指した。
 行く先々に治安部隊の姿があった。軍道にはそもそも民間人の立ち入りが許されず、主要な幹線道路ではいくつもの検問がスパイや過激派や脱柵《だつさく》者を待ち受けていた。携帯用のラジオをずっと聴いていたが、どの局も日がな一日音楽を流しているか、電波の不正使用は有事対策基準に違反するので云々《うんぬん》という決まりきった例のアナウンスを繰《く》り返しているか、それとも放送を休止しているかだった。北方情勢の緊張《きんちょう》も情報統制も、相変わらず続いている。
 二人がいまだに制服姿のままでいることについては少々複雑な事情がある。浅羽としても早く私服を手に入れなければならないと思ってはいるのだが、金の問題もあるし、着替えを買えるような店は閉まっている可能性が高かったし、どこにあるかもわからない店を探して街中をうろついたるすること自体がそもそも危険だった。学校に泊り込むことが多かった浅羽は部室から予備の制服や代えの下着を持ち出してきていたが、ずっと着たきりすずめの伊里野をさしおいて自分だけ清潔《せいけつ》な服に着替える気にはなれずにいる。
 そして、最大の問題は伊里野の髪だった。
 真っ白になってしまった伊里野の髪は、どうしようもないくらいに人目を引いた。
 今日も移動中はずっと、できるだけ隅っこの目立たない席で小さくなっていたのだ。が、検札に来た車掌は切符を取り落とし、弁当売りは眉をひそめて足を早〔#「早」はママ〕め、野菜の行商をしているおばさんには「親からもらった綺麗《きれい》な髪を染めたりするのはいけないことだ」と懇々《こんこん》と諭《さと》された。浅羽は一日悩みに悩み抜いた果てに、電車を下〔#「下」はママ〕りた無人駅のホームで、
 夕暮れの西日の

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只看该作者 4楼 发表于: 2005-06-10
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http://202.119.32.102/file/K/kamumi/IRIYA.rar


呼唤日文达人,解释一下结局

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只看该作者 5楼 发表于: 2005-06-10
哦,不知道该说才好,这个结尾。
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只看该作者 6楼 发表于: 2005-06-10
看了RAW版的第5话,和小说剧情发展几乎一样.........就是省去了一些剧情,但是关键的强暴未遂还有精神崩坏都在剧情内,
看来,最后还是走小说的路线了,不会是HAPPY END了........

也好,也好,好久没看过悲剧片了

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只看该作者 7楼 发表于: 2005-06-10
哎……俺想要看浅羽和晶穗的HAPPY END啊……还有妹妹和部长的HAPPY END啊……T.T

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只看该作者 8楼 发表于: 2005-06-11
引用
最初由 iliiad 发布
哎……俺想要看浅羽和晶穗的HAPPY END啊……还有妹妹和部长的HAPPY END啊……T.T


这个........偶无言了

YY也是有个限度的,那些都只是配角罢了.Akiho根本没机会....妹妹和部长还有点可能^_^:p

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只看该作者 9楼 发表于: 2005-06-11
引用
最初由 悲桔梗 发布


这个........偶无言了

YY也是有个限度的,那些都只是配角罢了.Akiho根本没机会....妹妹和部长还有点可能^_^:p


怎么会没机会?只要Iriya死掉,男主角和Akiho顺理成章啊!EoE的结局不就是这样的?王道啊!:cool:

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只看该作者 10楼 发表于: 2005-06-11
"只要"---好像这个假设确实发生了.......- -b
不过偶还是坚信Iryia是飞走了,并没有明确的表示死去了,虽然飞走了最终还是会死,但是至少是自由了之后的死去,已经很幸福了

而且文章最后有这么一句
"伊里野《いりや》を探しに行ったのかもしれない、と浅羽は思っている。"

这样AKIHO就没机会了吧?^_^

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只看该作者 11楼 发表于: 2005-06-11
所以才说俺想要Asaba和Akiho的HAPPY END啊……连Shinji和Asuka都能在Rei挂掉后有HAPPY END(虽然并不能完全确定是HAPPY END还是谋杀未遂……OTL)

另:说不定N年后Asaba回来和Akiho HAPPY END了呢……XD

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只看该作者 12楼 发表于: 2005-06-11
我想知道05 RAW那里有的下。。

砖到拍时方恨少
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只看该作者 13楼 发表于: 2005-06-11
引用
最初由 iliiad 发布
所以才说俺想要Asaba和Akiho的HAPPY END啊……连Shinji和Asuka都能在Rei挂掉后有HAPPY END(虽然并不能完全确定是HAPPY END还是谋杀未遂……OTL)

另:说不定N年后Asaba回来和Akiho HAPPY END了呢……XD


N年后回来还有意义吗?凭什么让晶穗浪费这么宝贵的光阴等这个废柴?她没有追求幸福的权力吗?只因为是个配角?每个人心中的HAPPY结局并不一样,妹妹与部长也是我所喜爱的一种H结局(APPY就省掉了,反正也差不多),晶穗,追求自己的幸福去吧。让那对死鬼坐在飞机里,从赤道向宇宙进发吧,那里更接近天堂。
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只看该作者 14楼 发表于: 2005-06-11
遗憾的时,ASABA已经回来了,在AKIHO身边.......但还是想着IRYIA的,汗.....

YY就要发挥想象力吗,别介意剧情了,大家随便想吧^_^

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